「父がくも膜下で急死」左官屋の愛称で「から騒ぎ」で人気を博した西方凌 人生を変えたのは「落ち込む母の発した言葉」
提出する履歴書を書いていたら、途中で眠くなってうつらうつらしちゃったんです。すると、窓を閉めきっているのに部屋のタペストリーがすごく揺れて。だけど不思議と怖くなくて、「これはお父さんが『書け』って言ってる!今、書かないとやばい!」という気持ちになって、急いで書きあげて締切ギリギリに投函したんですね。その後、忘れたころに「書類が通りました。オーディションに来てください」と連絡が来たものの、仕事と重なっていたので行く気持ちと行かない気持ち半々でいたら、母が「絶対に行ってほしい!」と(笑)。その願いを受けて1次選考に行くことを決めて、何度か選考を経たのちの最終オーディションに明石家さんまさんがいらっしゃったという流れです。
── 番組出演が決まったことは、お母さまにとって明るいニュースになったんですね。 西方さん:なりました、なりました。もう書類が受かった段階から、キャーキャー言って喜んでいました(笑)。父のくも膜下出血は本当に突然で、初孫が産まれる3日前だったんです。妊娠していた姉の出産予定日を過ぎていて、心配した父が早く帰宅していたので倒れたのはたまたま家だったのですが、私が現場から駆けつけたときにはすでに意識不明の状態で。最後にどんな会話を交わしたかさえ覚えていないくらい、突然のことでした。昔ながらの大黒柱という感じの父でしたし、妹はまだ学生だったので、母は「先が見えない」とすごく落ち込んでいて。父と母に導かれるかのように、オーディションまで進んでいったように思います。
■「から騒ぎ」出演後は左官業を退職して上京 ──「恋のから騒ぎ」にレギュラー出演したあとは、退職して本格的に芸能界で活動されるようになりました。芸能1本に決めた理由や経緯を聞かせてください。 西方さん:本当は女親方になりたくて、「から騒ぎ」の出演が終わったら左官業に戻ろうと思っていたんです。でも、母は現場には危険が多いからと反対していて、「小さいころから、芸能ではなくとも華やかな世界に進めばいいのにと思ってた」というようなことを言っていました。