【長嶋茂雄は何がすごかったのか?】昭和の名捕手・大矢明彦が語る"ミスタープロ野球"<前編>
大矢 新人の年、後楽園球場での試合の時、打席に立った長嶋さんがベース板をバットの先でコンコンと叩きながら、「大矢、ヤクルトを阪神みたいなチームにしちゃダメだぞ」と言ったんだよ。 ――どういう意味なのでしょうか。 大矢 当時の阪神は豪傑というか侍というか、個性派が揃っていて、ひとりひとりが勝手に動いているように見えたんだよ。僕なりに、「ヤクルトはこれからのチームなんだから、みんなでまとまって一生懸命に野球をやれよ」ということだと理解した。 ――試合中、バッターボックスから長嶋さんはそんなことを言ったんですね。 大矢 そう。だから、ものすごく印象に残っている。僕は思わず、「ありがとうございます」と言った。その言葉を聞いて、「プロはすごい、プロ野球を代表するような選手はそんなふうに考えているのか」と思ったね。自分が打ってお金を稼ぐということだけじゃなくて、ほかのチームのこと、リーグ全体のことまで考えているんだな、と。 ――それまでBクラスが多かったヤクルトは7年後の1977年に2位に入り、1978年に初めてのリーグ優勝、日本一に輝きました。 大矢 「早く優勝を争うチームになれよ」という、長嶋さんからのメッセージだったと思う。 ――プロ1年目の1970年、93試合に出場した大矢さんは1971年に捕手としてレギュラーポジションを獲得しました(127試合出場、打率.231、10本塁打、40打点)。その夏には初めてのオールスターゲーム出場を果たしています。 大矢 セ・リーグのサードが長嶋さんで、ファーストが王さん。試合前のシートノックの時、ボール回しでは感激したよね。サードの長嶋さんに「カモーン!」って呼ばれるんだから。あの時は何とも言えない快感があったね。緊張している暇もなかった(笑)。長嶋さんがそこにいるだけで特別な空間ができてしまう。 ――同じチームでプレーした長嶋さんにどんな印象を持ちましたか? 大矢 やっぱりものすごいオーラがあったよね。オールスターに出てくるほかの選手とも全然違う。長嶋さんの守備って、やっぱり、送球のあとの姿がカッコいいんだよね。ずっと目に焼き付いて、記憶に長く残る。そんな選手はほかにはいないでしょう。自分の見せ方をよく知っている選手だったと思う。 ――大矢さんが球宴に初出場した1971年、長嶋さんは35歳でしたが、衰えのようなものは感じましたか。 大矢 そういうものはまったくなかった。子どもの時に見た長嶋さんのままだったね。38歳で引退を決めたのは、スタイルを持っていた長嶋さんが自分のプレーに納得できなくなったからだと思う。僕からしたら、最後まで長嶋さんは長嶋さん。子どもの頃に見た長嶋さんのままで引退したという印象だね。 次回、大矢明彦編後編の配信は11/30(土)を予定しています。 ■大矢明彦(おおや・あきひこ) 1947年、東京都生まれ。早稲田実業、駒澤大学を経て1969年にヤクルト・アトムズ(現東京ヤクルトスワローズ)に入団。「鉄砲型の殺し屋」と称される強肩と巧みなインサイドワークで投手陣をリードし、1978年のヤクルト初優勝に貢献。1985年の現役引退後は横浜ベイスターズの監督を歴任。現在は野球解説者として活躍中 取材・文/元永知宏