コロナ禍における家族、そして小説の役割 『ははのれんあい』刊行記念対談(後編) 窪 美澄×カツセマサヒコ
女性の性や人生、そして家族をテーマにした小説を精力的に発表し続けてきた窪美澄さん。そして、ツイッターのフォロワー数14万人超の人気ウェブライターであり、昨年『明け方の若者たち』で鮮烈な小説デビューを果たしたカツセマサヒコさん。窪作品のファンでもあるカツセさんと窪さんのお二人が、リモート対談を行いました。窪さんの最新刊『ははのれんあい』の感想や執筆秘話、またそれぞれの家族観やコロナ禍における小説家の役目など、さまざまなテーマで語り合っていただきました。前後編でお届けします! >>【前編】「当時を思い出しながら感情を落とし込んだ作品です」(窪) 「読みながら、妻に謝りたくなりました」(カツセ) ■フリーライターから小説家へ 窪:私のデビュー作『ふがいない僕は空を見た』は助産院が舞台なんですが、フリーライター時代に妊娠、出産、子育てジャンルの記事を書いていた経験が役に立ちました。当時取材したことや得た知識は今でも積極的に使っています。カツセさんはいかがですか? カツセ:僕は今もウェブライターの仕事を続けていますが、ライターの強みは、自分とまったく縁のなかった方々の話を聞きに行けることにあるんじゃないかと。さらに、小説を書くようになって、そのアウトプット先ができた。フィクションにさえしてしまえば、取材したことがすべてネタになる(笑)。ライターをやっていて本当によかったと思います。あとは、僕はウェブメディアからスタートしたライターなので、読者を記事の途中で離脱させないための工夫はしているつもりです。 窪:それ、すごくわかります。カツセさんの小説は、細部まで手入れがいきわたっていて、飽きさせない工夫がしてあると感じました。引きがずっとある、というか。 ■そのうち映画化のオファーがくるかも カツセ:そこは本当に気をつけたつもりです。でもその結果、いつも読んでいる作家さんの小説とはテンションや句読点のリズムが違ってしまった。いつか「いかにもウェブライターが書いた読みやすい小説」という荷を下ろした物語が書きたいですね。もちろん1冊書き終えたことは誇りに思っているんですけど、稚拙だなと思うこともあるし、もっとうまく書けたんじゃないかという悔しさもあって。 窪さんは固有名詞が際立つと言ってくださったし、そこは狙いでもあったんですが、読者の想像力を奪ってしまったのではないかという反省もあります。みんなに同じビジュアルを見せるために書く最たる例が、固有名詞だと思うので。 窪:でも映像的で個人的にはすごく楽しめましたよ。脳内に「エイリアンズ」が流れて、猥雑な明大前の街並みが浮かんで……と。本の帯に映画監督の今泉力哉さんもコメントを書いてくださっているけど、そのうち映画化のオファーがくるかもしれませんよ(笑)。 ところで次作はもう書いているんですか? カツセ:はい。ライター仕事をやりながらも、集中して書かなきゃと思っているところです。 窪:体内から空気がシューッと抜けていく時期ですね。結界が張られるような感じというか。アイデアを自分の頭からこぼさないように注意して生活しなくちゃみたいな感覚ありませんか? カツセ:あります! 書くこと以外のすべてのことが面倒くさくなってしまいます(笑)。 ■コロナ禍における家族関係 窪:ひとり暮らしなので個人的には以前と変わりませんが、周囲に話を聞くとコロナ禍によって家族の形もさまざまに変化しているように思います。 カツセ:去年の大晦日、NHKの紅白歌合戦を見ていたら、星野源さんが歌う「うちで踊ろう(大晦日)」の中に「僕らずっと独りだと諦め進もう」というフレーズがあったんです。これまでの家族関係って「一致団結」とか「絆」がよしとされてきたけど「個々でいいんだ」「人は独りという前提があって、それでも家族なんだ」ということを改めて意識しました。そのマインドのまま『ははのれんあい』を読んだこともあって、「複雑だけどそれでも家族なんだ」という言葉が前向きなメッセージとして響いたんですよね。コロナ禍の今、諦めるように「それでも家族」って思う人がいたり、「家族がいてよかった」と思う人がいてもいい。そこに自由があってほしいと思いました。