メグロ 激動の40年 ―日本のバイク史を駆け抜けた幻の名門の盛衰―
誕生は大正13年(1924年)
軽二輪の新型車「カワサキ・メグロS1」の発売により、いま再び注目を集めているモーターサイクルブランド「メグロ」。日本における二輪産業の黎明(れいめい)期を駆け抜けた幻のメーカーは、いったいどんな存在だったのか? 今も特別な響きを持って語られる、彼らの足跡をたどる。 【写真】小さなメグロが令和の時代に復活! 「カワサキ・メグロS1」の詳細な姿はこちら(6枚) メグロ(目黒製作所)の生い立ちはとても興味深い。激動の時代に翻弄(ほんろう)されつつも高い技術力で成長し、そして最後には時代の流れに追従できなくなり、姿を消していくのである。目黒製作所の起源を探ると、大正8(1919年)年8月にまでさかのぼる。日本が参戦していた第1次世界大戦が終わった翌年である。幕府による長い統治が終わって50年が過ぎたこの頃、日本は近代化を推し進め、西欧諸国に肩を並べる工業国になろうとしていた。 ここで勝 精(かつ くわし)に触れておくことにしよう。勝の存在が目黒製作所の誕生に影響しているからである。勝 精の旧姓は徳川。江戸幕府15代将軍 徳川慶喜の十男である。精は勝 海舟の嫡子、勝 小鹿の長女伊世子の婿養子として勝家に入り、勝 海舟が死去した後は勝家の家督を相続していた。 さまざまな趣味を持っていた勝は、バイクにも興味を持つようになり、当時エンジンをつくっていた友野鉄工所に勤務していた村田延治に声をかけ、屋敷内に村田製作所を設立する。村田は友野鉄工所でエンジンに関して高い技術を身につけていた。ここに加わったのが、目黒製作所創業者のひとりとなる鈴木高次である。鈴木は海軍の技師として働いていたが、ワシントン海軍軍縮条約の結果、海軍が主力艦の製造を取りやめたことから海軍を離れ、村田製作所で働くことになった。 村田製作所にはほかにも元海軍の技術者らが加わり、排気量1200ccのビックバイク「ジャイアント号」を開発。市販化には至らなかったが、村田と鈴木は二輪に関するさまざまな技術を習得していった。 入社から2年がたった大正13年(1924年)、関東大震災の翌年に鈴木は独立。目黒製作所をスタートさせる(初期は鈴木製作所と名づけていたが、後に目黒製作所に改名)。創業して1年後には村田も加わり、共同経営者として目黒製作所を育てていった。 当初はトライアンフの部品製造や自動車の整備を主な仕事にしていたが、昭和4年(1929年)頃から本格的に自動車事業へ参入するようになる。モータース商会が製作した「MSA」というバイクのトランスミッションをつくったのを皮切りに、さまざまな自動三輪のトランスミッションを開発。メグロの変速機は高い評判を呼び、駆動系パーツを中心に製造して日本各地のメーカーに納入するようになっていった。昭和7年(1932年)からは二輪車、四輪車のエンジンも開発するまでになったのである。