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多声的な眼差しを映し出す、絵画的な像。三宅砂織インタビュー

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美術手帖

──光を透過するフィルムにドローイングを描き、その絵の影を印画紙に焼きつける「フォトグラム」という手法を中心に作品制作を続けてきた三宅砂織さん。近年の展覧会では「THE MISSING SHADE 3」(2018、WAITINGROOM)、「20th DOMANI・明日展」(2018、新国立美術館)、「庭園|POTSDAM」(2019、SPACE TGC)、「2019 Echo after Echo:仮の声、新しい影」と、「The Missing Shade」と呼ばれる個人的に収集された写真をモチーフとしたシリーズを展開しています。改めてこのシリーズを手がけるようになった契機について教えてください。  「かつて人が見たもの、そしてそれを私たちが見る」という時間軸や空間性をもった営みへの興味が契機になっています。  「The Missing Shade」シリーズは個人的に収集された写真がモチーフになっていますが、作品の主語は写真の所有者であった「ある特定の個人が」ではありません。ひとりの人物に関わるものを眺めていても、そこには、本人の撮影した写真だけでなく、他の人が撮った写真や、公の記録や写真も入っているのが常です。個人の私的な眼差しのなかには、多数の人の声や視点が共存し、相互作用しているという様相に関心があります。  「ある特定の個人が」を主語にして物語にするのでも、事実として記述するのでもなく、「絵画的な像」として私たちの世界に存在するものを描写したいと思っています。 ──「2019 Echo after Echo:仮の声、新しい影」で展示された作品群は、ベルリンオリンピックに日本代表として出場し、東京オリンピックの開催にも関わったある体操選手の私的な写真から発想した一連の作品です。お話しできる範囲で、この「ある人物」にたどり着いた経緯を教えていただければと思います。  個人的な写真に出会う経緯は様々です。いまのような作品をつくり始めた頃は、知っている人にお願いしたり、蚤の市などで買ったりしていました。  最近は私の作品を見たことある人が、「写真を見てほしい」と持ってきてくださったり、家の片付けをしていたらたくさん写真が出てきたから見に来ないかと声をかけてくださったりします。この「ある人物」もそういった経緯で出会いました。 ──展示からは歴史的な接続性も感じました。映っている「ある人物」は、ナチスドイツによる国威発揚の側面が大いにあったベルリンオリンピック(1936)に参加していて、ポツダムの庭園を撮影している。「ポツダムの日」や「ポツダム宣言」といった、第二次世界大戦前後の歴史に、個人の断片のようなところから接続すると思いました。   こういった写真を見るとき、そこに何が写っているかは大切にしつつも、そこにどういう眼差しを向けたかということを重視したいと思っています。何に接続するかは見る側によって変わりうる、不確定かつ複数のものです。  この人物が私的に残した記録には、少年時代から始まり、五輪出場・従軍を経験した青年期、教育者として過ごした晩年までの様々な瞬間をとらえた写真、新聞の切り抜き、手紙や電報、本など、その他諸々の収集品が含まれています。2018年の「20th DOMANI・明日展」では、戦前、戦中、戦後をまたいだこの人物の半生を俯瞰するような展示をしました。  その後、2019年から2020年にかけて、オリンピック目前の東京で展示することになり、今回は、この人物が経験したオリンピックをめぐる出来事に焦点を当てた作品をつくってみようと思いました。アルバムを見ていくなかで、遠征時に訪れた見事な噴水の写真に惹かれて、そこに添えられた文字を読むと、そこには「ポツダム宣言で有名なポツダム」と書いてあり、強い印象を受けました。この一文からは、1936年にポツダムで撮られた写真の持つ響きが、1945年の「ポツダム宣言」によって一変したのちに、ふたたび目にされたという単純な事実がわかります。敗戦という大きな出来事を跨いだ、個人と歴史の眼差しの変化と交差が、突然目の前に差し出されたようでした。  東京都現代美術館の展示では、フォトグラム、映像、ファウンド・オブジェ、ドローイングを、それぞれ照らし合わせるように置きました。複雑ですが明確な仕組みによって、ポツダムの庭園とベルリン五輪をめぐるある個人の静かな眼差しを、多声的に提示しようと試みたのです。 ──三宅さんがこれまで一貫して制作に用いてきたフォトグラムは、多重的な奥行きを感じさせる手法です。この技術と、三宅さんが意図する作品の多重性はリンクする部分もあるのでしょうか?  立体物の影を投影する一般的なフォトグラムと違って、私は写真を元にしたドローイングの影、つまり絵の影を投影しています。そのことによって、手で描いた像とも、カメラのレンズでつくった像ともいえない、見慣れない奥行きが生じてきます。   おっしゃっていただいたように、技法やプロセスなど形式が多層的な世界観の比喩になって、直感的に伝わる部分は重要かもしれません。アナロジーのおもしろいところは、構造を与えて、目の前のものを通して別の次元と共鳴するところですね。 ──三宅さんは2003年頃よりフォトグラムによる作品制作を手がけるようになりましたが、その手法にたどり着くまでには、どのような思考の流れがあったのでしょう。  そうですね。思い返してみると、絵を描くことは思考することそのものでした。  作品をつくろうと思い始めて日本画と油絵を学んだのち、直接的な表現方法から距離をとりたくなり、版画を始めました。私が主に取り組んでいたリトグラフという技法は、筆やクレヨンで描いた描画をインクに置き換えてプリントする技法です。この「置き換え」が私には重要でした。そして、版画には写真製版という、イメージを光学的に焼きつけて版をつくる技法があるのですが、作品をつくるうえで「写真」を意識したのは、この写真製版に取り組んだことがきっかけです。フォトグラムは写真製版の延長線上から始まりました。  ちょうどこのころ描いていたイメージは水彩画的なものでした。雑誌から切り抜いた写真のコラージュで、物語の場面のようなイメージをつくり、それをシームレスに描き写すという手法です。コラージュのために大量の写真を集めていましたが、それを見ているうちに、だんだん一葉の写真の中にすでにある、コラージュ的な性質について意識しはじめました。それは、視覚的レベルの関心とともに、複雑な社会構造、文化や歴史が組み込まれた私たちのもののとらえ方への関心に広がっていきました。同時期、フォトグラムでの実験を重ねていくうちに、「絵画の起源」や「影」の問題を考えるようになりました。 ──フォトグラムを制作しているときの三宅さんは、身体的、あるいは精神的には、どのような状態に置かれているのでしょうか?  対話している感じです。作品を制作するときは、ある程度の見当をつけて始めつつも、制作の過程でコンセプトが見いだされていき、そこからまた次の問いへとつながってコンセプトを考え直すというように進んでいきます。  ひとつのイメージを、分解した複数のドローイングを重ねて被写体にしていますが、描写がそのまま映し出されるわけではありません。モノクロが反転するだけでなく、露光するときの具合でブレやボケなどが偶発的に加わります。また、露光中は感光紙の上をドローイングが覆っている状態なので、表面にどんな影が落ちているか見えません。現像液に露光を終えた感光紙を浸し、潜像が浮かび上がって初めて、どんなイメージが映し出されたかわかります。また、ひと組のネガから複数のフォトグラムをつくることが可能ですが、それらもひとつとして同じものはありません。  あらゆることが未決定なままプロセスが進み、いったん完成させても、それはひとつの断面の様相にすぎず、他の可能性がつねに残されます。フォトグラムを制作するときは、いわゆる「作者」という立ち位置からすべてを把握するのを放棄したほうがうまくいきます。だから、精神的には解放されているのかもしれません。 ──写真の感光技術を使用することからも、フォトグラムにおいては光の存在が重要になってくると思います。絵画を考えるうえでも光は要素として重要ですが、この光という要素は三宅さんの作品のなかでどのような意味を持ちますか?  結果として同じかもしれないですが、重要なのは光というよりも影の方かもしれません。  おっしゃるように、西洋絵画を考えるうえでも光は大きなテーマであると思うのですが、影は語られづらいものとして存在したと思います。この場合の「光」とは、おそらく基本的に反射光ですね。私が使っているのは「透過光」なので、こちらの場合、「光」という要素はいわば裏側から逆照射された「光」という意味になります。  「影」の方に目を向けると、暗室作業において感光紙に光があたっていたところは黒っぽく変化し、影になっていたところは白いまま残るので、画面上の意味において、「影」は「光」へ、「光」は「影」へと反転します。 ──展覧会では、フォトグラムの作品とともに、ネガとポジを反転させ、ポツダムの庭園の映像作品も展示されています。なぜ、フォトグラムの作品とともに動画作品も手がけようと考えたのでしょうか?  フォトグラムのためにドローイングするとき、ポジのイメージを見て頭の中でモノクロを反転して、ネガのイメージを光透過性フィルムに描いていきます。それをプリントするとふたたび反転してポジになります。だから、ポジからネガに、そしてふたたびネガからポジにという往還、連続した生成過程から見えてくるものがあって。「ネガ」と「生成過程」の問題は長年、私の内側の事象でしたが、なんらかのかたちで提示したいと思いました。「ネガ」については今回、ドローイングの作品も展示しています。  動画に関しては以前から、カメラ・オブスキュラという装置のことも念頭にありました。15世紀頃から遠近法を発展させた画家たちは、実物のモチーフを観察するだけでなく、光学装置を利用して、つまり投影された像をも観察して描いてきたといわれています。  あたりまえのことですが、当時は録画できないので、光学装置でスクリーンに投影される像はライブ映像=動画になります。つまり動画を静止画として留めようとしてきたのですね。当時の画家たちが、映し出された映像を見ていたと知って、「絵画」と言うときイメージされるもののひとつの原点へのアプローチとして、動画をつくりたいと考えていました。 ──映像がスローになっていることにも理由はありますか?  動画を少し静止画に近づけたいと思い、そのために「遅さ」を導入しました。  映像作品《Garden(Potsdam)》には噴水が多く登場します。一見、水だけが動いているみたいですが、よく見ればすぐわかるように、背景の公園も同じく動画です。ひとつの画面の中にも「静止画」的なものと「動画」的なものがあります。「動画」と「静止画」の関係を意識して、内なる「絵画的な像」が立ち現れるときの感覚をとらえようと試みました。 ──今後、三宅さんの制作はどのように展開していくのでしょうか?  また新たな「絵画的な像」に出会ったときに、どのように展開していくかわかってくると思います。ちょうどいま、つぎの作品に向けて、少しずつ写真と場所を見始めたところなんです。  他方では、すでに手元にある数多くの写真と、これから起こってくる状況が結びついて、新しく展開する可能性や、すでにある作品を再構成して別側面からの視点で展示することも重要だと思います。  先ほどもお話ししたように、作品を見た人が、次の写真をもたらしてくれることが増えてきました。だんだん作品は最終地点ではなくなって、眼差しの連なりの途中に位置しているように感じています。最近は機会があるたび、写真をもたらしてくれた人たちと一緒に写真を見ているのですが、その人たちの眼差しのなかの「絵画的な像」もまた浮かび上がってくることがあります。これこそが、重要なものになってきているのではないかと考えています。現代の画像環境において、誰しもがある意味では「画家の目」を持っていると思います。だからこそ、言葉になり得ない人間的な深層、画家性のようなものにさまざまなかたちでアプローチしていきたいと思います。

聞き手・構成=安原真広

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