東映ヤクザ映画の殺され役たちの「悲哀」と「底知れぬパワー」…日本映画史に残る「伝説のレコード」
こうして始まったピラニア軍団との生活
三上:私は1971年に歌手としてデビューしまして、フォークブームの最中で学生運動も盛んな頃でしたから、同じ世代の連中に支持されて、いつもどこかの学園祭に呼ばれて歌っていたものですよ。ところがね、それから何年かして学生運動が終わったら、みんな田舎へ帰るか、髪を切って就職して……ってな話で、気がついたらお客がみんないなくなっていた(笑)。「歌なんか歌っていてもしょうがないな」と思い始めていた時、たまたま深作欣二監督と知り合ったんです。日本ジャーナリストクラブ(JJC)の大きな会合がありまして。新宿コマ劇場を借りて、いろんな人が出たんです。 1975年8月、JJCが主催した長時間の討論会「のんすとっぷ24時間 -戦後30年・酷暑・おしゃべりとうたとけんかと-」。青森から上京したばかりの三上にレコードデビューを勧めたジャーナリスト・ばばこういちからの誘いでこのイベントに出演した三上は「あなたもスターになれる」と「BANG!」を歌い、「やくざ映画を考える」というトークショーに出演した深作と対面した。それ以前にも、梶芽衣子のコンサート「新宿アウトロウショー」(1973年5月)に出演するなど、映画関係者も多く出入りする新宿ゴールデン街にもなじみが深かった三上の存在は、すでに映画界では一目置かれていたようであった。 三上:深作さんが私を見るなり、「お前、(映画に)出る気あるか?」と言うんです。私は『仁義なき戦い』(1973年1月)が大好きで、目の前にそれを撮った大巨匠がいるわけですから、一も二もなく「え! いいんですか?」ですよ。あとで深作さんに「どうしてあの時私に声をかけたんですか?」と聞いたら、「お前の体つきは、やくざなんだよ」と言われましてね、驚きました(笑)。なんでも、「最近の俳優はみんな足が長くて、筋肉質で、顔も彫りが深い。お前はずんぐりしていて、首も太い。これが本当のやくざの体型なんだ」と。 それまでの三上は映画出演といえば、寺山修司が監督した『田園に死す』(1974年12月)のほかに数本。まだまだ演技の経験は少なかった。そんな三上が、初めて太秦にある東映京都撮影所を訪れた。 三上:言ってみれば”外様”ですよね。私は映画界のことなど何も知らないで返事をしてしまったんで、知り合いには相当脅かされましたよ。「京都の太秦といったら、天井から照明が落ちてくるらしいぞ」「東京から来た人はすぐいじめられてみんな辞めてくんだ」とね。作家の長部日出雄さんまで「寛ちゃん、東映に行くなら一生涯、野菜だけを食べると良いらしい。そしたらギラっと目に光が出るらしいよ」、なんてことを言う(笑)。「そんなに怖いところだったのか…」とビビりながら、でも決めたんだからしょうがないと思って行ったわけです。 三上が出演することになったのは『新 仁義なき戦い 組長の首』(1975年11月)。ギターを抱えて「小林旭」と名乗る子分の青年役を演じた。ボブ・ディランでなく、「渡り鳥シリーズ」のアキラにあこがれてギターを弾き始めたという三上の生い立ちが反映された役である。 三上:京都では最初に衣装部へ行って、そこで初めて小林稔侍さんにご挨拶したんですけど、ビックリするくらい腰が低いんですよ。外を歩いていても、すれ違う人たちがみんな礼儀正しい。「あれ? 聞いてたのと全然違うじゃないか」って。稔侍さんは稔侍さんで私のことを見て、「こんな街のチンピラみたいな素人を、一体どこで拾ってきたんだろう?」と思っていたらしい(笑)。これはあとでわかったことなんですが、例えば昔はどこかでロケをする時、撮影中に車や人が来ないようにその場を仕切ってくれるおじさんがいたでしょう? 東映の映画でお世話になっていたその有名な人が、私と同じ三上っていう苗字だったんです。なんとなく顔も似ていたらしくてね。みんな私をその方の倅かなにかだと思っていた。撮影所じゃ、誰も私が歌手だなんて知らなかったんです。