「母になれない」でも「母にならない」とまで決意できない…「普通に幸せ」に生きる難易度が高すぎる世の中を生きるには
産む気もないのに生理かよ! #2
「母になりたい」とはとても思えない、でも、「母にならない」というファイナルアンサーもできない。どうして産みたいと思えないのか、どうして産みたくないと言い切れないのか。コラムニストの月岡ツキさんは、いま私たちが生きている社会で子どもを幸せにする自信がないからだという。 【画像】「この世は生きるに値する、ということを子供たちに伝えたくて映画を作っている」と語った監督 書籍『産む気もないのに生理かよ!』より一部を抜粋・再構成し、母にならない女性の葛藤をお届けする。
親になる決意が持てない
「まだ存在していない人間の意思は聞けないし尊重できないわけで、そうなると新たな人間を意図してこの世に産み出すという行為はすべて『すでに存在している人間(親)が何らかの希望を満たすために行うもの』ということになる。 『生まれてくる子供の意思を尊重して、彼らが『生まれてきたい』と強く希望したので、子供をつくることにしました』というのは、どだい不可能なわけだ。 世の中には「そんなこと考えたこともなかった」という人も少なからずいると思うのだが、私は「そんなこと」ばかり考えてしまう人間である。「子供という他人の人生を、私が勝手にはじめていいのか?」と思ってしまうのだ。 だから、おいそれと親になれないでいる。 親になる、ということは、「自分のところに生まれてきたら、その子供はまあまあ幸せになれるだろう」という確信と、「自分は親になったらそこそこ子供を幸せにしてやれるだろう」という自信がないとできない行為ではないか。 実際に親をやっている人は、「いやいや、そんな確信も自信もないですよ」と言うかもしれないが、「子供を幸せにできないだろうなあ」と思いながら意図して子供を持とうとする人は、あまりいないように思う。みんな少なからず、「自分は生まれてくる子供を幸せにできる」と信じて親になっている。 その確信や自信が失われないように頑張ろう、と思うのが「親になる決意」ってやつなのだろう。 私はその点で、確信や自信が全くない。よって決意ができない。生まれてきた子供が幸せになれるかどうかには不確定要素が多すぎて、何ら保証できることがないからだ。 勉強が苦手だったら? いじめられてしまったら? 人とかかわるのが苦手だったら? そういった、子供自身がコントロールしきれない要素を乗り越えてなお、幸せに生きていけるのだろうか?と思うと、簡単には「大丈夫」とも「私が幸せにしてみせる」とも言えないのだった。