<高校野球物語2022春>/11止 苦境に光、13人で初聖地 只見・長谷川監督、恩師の遺志継ぎ
高3の夏に踏んだ聖地の記憶。只見(福島)の長谷川清之(せいし)監督(55)は37年余の時を経て、指揮官として甲子園に戻る。豪雪地帯で過疎化が進む古里の県立高を率いて約20年。わずか13人の選手と立つ甲子園は指導者としての原点であり、天国の恩師に報いる舞台だ。 1984年夏、長谷川監督は学法石川(福島)の選手として甲子園に出場した。第66回全国選手権大会の1回戦で海星(長崎)と対戦。甲子園のスコアボードには、4番・センターで「長谷川」の名前が刻まれた。「甲子園練習はしましたが、本番は雰囲気がまったく違いました。アルプススタンドやバックネットが高く見え、圧倒されるような雰囲気でした」。最終回で逆転を許し、「甲子園の魔物ですかね」と初戦敗退の悔しさを味わった。 当時、学法石川を率いたのは、監督として春夏合わせて11回の甲子園出場を果たした柳沢泰典さん(故人)。「苦の中に光あり」「山を越えたら、また山があった」などの多くの名言を残した。長谷川監督は甲子園出場を決めた福島大会を振り返り、「監督の細かい助言が、ことごとく的中してチームを救いました。最後まで慌てずプレーできたのは、監督のおかげです」。指揮官の偉大さを感じた。 高校卒業後、社会人野球の住友金属鹿島(現日本製鉄鹿島)に進んだが、結果を残すことができず、4年で現役生活を終えた。古里の只見町に戻り、地元企業で働いていた長谷川監督の人生に転機が訪れたのは、学法石川が夏の甲子園に出場した99年8月14日のこと。総監督の立場でアルプススタンドから応援していた柳沢さんは試合中、くも膜下出血で倒れた。意識が戻らないまま、54歳で帰らぬ人となった。 亡くなる前年の秋、柳沢さんは只見の選手に野球教室を開き、長谷川監督は手伝いに出向いた。柳沢さんから「こんなグラウンドじゃうまくならねえぞ」と声を掛けられたのを覚えている。小さな町のために自分ができることは、野球しかないと感じていたさなかの訃報。地元出身で野球実績がある長谷川監督に地元から要望があり、柳沢さんの遺志を継ぐように2000年4月から只見でコーチを始め、3年後に監督になった。 ◇「強い気持ち」養う 学校は福島県最西端、人口約3900人の只見町にあり、積雪が3メートルを超える日本有数の豪雪地だ。監督になった後も、長谷川監督は建設会社に勤務し、冬は毎晩のように除雪作業員として働きながら、監督業との二足のわらじを履いてきた。遠征の際は、民宿から借りたマイクロバスのハンドルを自ら握る。「地元住民にとっては当たり前」と語る厳しい環境下で、野球と向き合った。 選手は13人。ベンチメンバーすら埋まらないのは、例年のことだ。「この地から甲子園なんて夢のまた夢。少ない選手で試行錯誤して、自分たちの野球を信じてきました」。グラウンドでは全力疾走を徹底するひたむきな姿勢で、昨秋の福島大会は勝利した3試合のうち、2試合で逆転勝ち。過去最高の8強入りを果たし、21世紀枠でセンバツ切符をつかんだ。「先制されても追いついたりと諦めない強い気持ちが目に見えてきました」と話す。 「柳沢先生には野球を通じて人間性を養ってもらいました」と振り返る実体験を踏まえ、「あいさつなど、当たり前のことができる」ような人間教育を重んじてきた。指導の根幹にあるのは「強い気持ちで相手に立ち向かう精神の育成」。大半が地元出身で全校生徒約80人の小さな学校の野球部が、強豪私学に対して技術的に劣るのは否めない。でも「気持ちなら負けない。いずれ社会に出た時、つらいことにくじけず、臆せず相手と向き合えるように」と願う。 只見は大会第4日の21日、大垣日大(岐阜)との1回戦に臨む。「(甲子園で倒れた)柳沢先生に会いに行って、良い報告ができるんじゃないかなと思います」。恩師にささげる全力プレーを誓う。【川村咲平】=おわり