全盲ながら子供3人を育てた両親 毎日の苦難と工夫、温かかった周囲のサポート
「体温計を見て欲しい」とスナックへ
好子さんも仕事を探したが、幼子を抱える視覚障害者への求人は皆無に等しかった。働く方法を模索し、仲間たちと福祉作業所を立ち上げたり、視覚障害者向けの専用ラジオ放送局で番組のアシスタントを務めたりもした。
長女・友佳理さんが4歳のころには、三女・琴音さんも生まれた。好子さんは、自由に動き回る娘たちが外にいても居場所がわかるよう、靴に小さな鈴をつけることにした。効果的だったが、しばらくして予想外の結果を招くことになった。 「娘たちの通う保育園で、他の子たちも真似して靴に鈴をつけだしたのです。迎えに行くと、園庭のあちこちからシャンシャンと音がするわけですよ。もう、どれが我が子の音なのか全然わからない(笑)」 最も困ったのは子どもが風邪を引いたときだ。当時の体温計では、熱を測っても目盛りが読めない。深夜に子どもが高熱を出したときには、近所のスナックに駆け込んだこともある。 「頼れるのが2軒隣のスナックだったんです。場違いだと思いつつも、カラオケで盛り上がる店内に娘を抱いたまま入って、『どなたか体温計の目盛りを見てもらえませんか!』と大きな声でお願いしたこともありました」
宮城家をサポートする人たち
助けを求めるといつも誰かが支えてくれた。当時の宮城家には、視覚障害者の仲間やボランティア、地域の母親など大勢の人が出入りしていた。現在、都内の福祉施設で働く女性(55)も、当時、宮城家をよく訪れていた一人だ。 「外出の際、正さんと好子さんが電車ごっこのように2本の白杖の先を握って、よちよち歩きの娘さんたちを守って歩いていた姿を今でも覚えています。お子さんたちが成長してからは、お二人が我が子に頼る場面も多かったと思いますが、当時のお二人は子どもたちを危険な目にあわせないよう、工夫しながら一生懸命に子育てしていた印象が強いです」 埼玉県蕨市の松村雅子さん(77)も、点訳ボランティアとして40年近く、宮城家を支えてきた。娘のための絵本から学校の配布資料まで、点訳したものは数知れない。 「好子さんは『目が見えないからできない』ではなく、常に『どうやったらできるようになるか』と考える。あるとき、手編みのチョッキを作りたいと相談されて、『編み図の点訳なんてないわよ』と答えたら、『それなら一緒に作りましょう』と。点訳ボランティアの仲間たちを巻き込んで、編み図の点訳に試行錯誤しました。彼女は率直に伝えてくれるから、私たちも自然な形で手助けできたんだと思います」