3度の戦力外通告にも負けなかった九州男児。「たったひとつの才能を簡単に捨ててはいかんよ」/プロ野球20世紀・不屈の物語【1977~99年】
歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。
バッティングセンターに“再就職”
「僕は野村さんみたいに、ボロボロになるまで、というのに憧れた。たったひとつの才能を簡単に捨ててはいかんよ」 1999年オフに“自由の身”となった山本和範は、こう語っている。野村とは、テスト生から南海(現在のソフトバンク)の兼任監督にまで出世しながら、“生涯一捕手”を掲げてロッテ、西武でプレーした野村克也のことだ。実績では野村に届かなかったが、この山本、キャリアの「ボロボロ」ぶりでは野村に負けていない。戦力外通告を3度も受けながら、3度すべてで、よみがえった男だ。野村も現役の終盤には形式的なものも含めて戦力外を経験しているが、いずれもベテランになってから。山本が最初に戦力外を通告されたのはプロ6年目のことだった。 近年は、戦力外通告を受けた選手たちの姿がテレビで特集されることが、どこかシーズンオフの風物詩のようになっている。プロ野球選手も因果な商売だ。戦力外を通告されると、選手たちは自由契約となる。自由契約というと、プロ野球に接して間もない少年少女に誤解を与えそうだ。懲罰的な解雇ではなく、クビ、と考えていい。さまざまな規定や規約を背景に、「あなたは自由に契約できますよ」というだけで、所属していた球団と修復不能な確執があった選手ならまだしも、自由契約には、自由や契約という言葉が持つポジティブな意味は一切ない。事実、自由契約となった選手は“再就職先”を探さなければならない。 ほかの球団に選手として“採用”されれば“移籍”になり、実績があれば指導者や解説者などプロ野球に関わる仕事もできるが、山本の場合、1982年オフに近鉄で1度目のクビになった後の“再就職先”は、大阪のバッティングセンターだった。プロ野球ではなかったが、野球に関わる仕事だったのが不幸中の幸い。バッティングセンターに住み込みで働きながら、再起に懸けてバットを振り続けた。 そんな山本を目に留めたのが穴吹義雄。南海の監督に就任したばかりだったが、プロ入りの際には大争奪戦が巻き起こり、破格の金銭が動いたことで、『あなた買います』という小説、映画の題材にもなった男だ。そんな“エリート中のエリート”と、若き“素浪人”の出会いが奇跡を呼んだ。悪運なのか強運なのかは定かではないが、意外と運がよかったのかもしれない。近鉄で投手から外野手に転じていた山本は、その強肩で頭角を現していく。南海2年目の84年には打撃でも結果を残し、外野のレギュラーとして翌85年には全試合に出場。続く86年にはゴールデン・グラブ賞にも選ばれた。自己最多の21本塁打を放った88年オフに南海は球団を譲渡、球界には衝撃が走ったが、これも山本にとっては追い風となる。ダイエーとなったホークスの新天地は九州は福岡。山本の故郷だった。