自民党・河野太郎の目玉政策「東大を地方移転させる」は、なぜ実現困難なのか?
自民党総裁選に出馬している河野太郎デジタル相が、東京一極集中を是正するため、「東大を地方に移転させる」という政策を発表し、話題を呼んでいる。 【写真を見る】東大の「75万冊の蔵書が消失」した史上最大の被害 東大はもうダメかも――という見方も出た
しかし、東大は独立行政法人(国立大学法人)なので、たとえ河野氏が総理大臣になったとしても、現行法下では東大側が自主的に移転しようと考えない限り、地方移転は実現できない。 では、東大側が自主的に地方移転を考えることはあり得るのか。老朽化した設備が目立つキャンパスを見ると、もしかしたら今よりも充実した研究環境を用意すれば、研究熱心な学者たちは移転に賛成するかもしれないという気もする。 だが、尾原宏之さんの近著『「反・東大」の思想史』には、いくら充実した研究環境を用意しても、東大の地方移転は難しいと思わせるエピソードが描かれている。以下、同書から一部を再編集して紹介する。 ***
三木清の東大論
東大は東京、しかも都心にあることによって東大たり得てきたといえる。昭和戦前期、全国の旧制高校生の進路志望は東大一極集中の様相を呈していた。1936(昭和11)年、哲学者の三木清はその原因について根本的な考察を加えている。 三木は「学生の東大集中には十分の理由がある」という。だがその理由は、東大の整った設備やすぐれた教授陣、教育内容では必ずしもない。高校生が教育内容に関心を持っているかどうかは、実のところ怪しい。東大に人気が集中するのは、「今日の日本では凡(すべ)ての文化が殆ど東京に集中されてをり、文化生活の豊富さにおいて他の都市は東京とは全く比較にならぬ」からだ、というのが三木の見立てである。 娯楽や遊興の豊富さといった卑近な話だけではない。勉学についても、東京は「知的文化的生活」を提供してくれる唯一の都市である。「学生は単に学校でのみ学ぶものでなく、また社会から学ぶものであり、そして東京の如きは都市そのものが大学である」。入手できる書物、鑑賞できる芸術作品、そして、その気になればたやすく接触できる知識人・文化人の数を見ても明らかだろう。 一方、「地方には殆ど文化都市といふものが存在しない」。「東大集中」は、政治・行政だけでなく文化も東京に一極集中したことの結果である。「東大を出ることと東京にゐること」は卒業後の就職においても有利なので、浪人してもそれを上回るメリットがある(「東大集中の傾向」)。 三木は、地方大学への転学促進による東大集中緩和策に否定的だった。学生が大学を移動できるドイツには地方に文化の香り高い大学都市が存在するのに対し、日本の場合は冴えない地方都市に大学が所在しているにすぎない。学生に自主的な都落ちを期待するのは無理がある。三木の東大集中緩和策は、結局のところ私立大学を改善して帝大並みに引き上げることだった。私大の多くは東京にあるので、これは東京一極集中の抗いがたい現実に即した解決策だといえる。