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憂鬱、絶望、悲哀、慟哭…人は誰もが「うつ」を抱えて生きている!

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オトナンサー

 憂鬱(ゆううつ)な気分のときに「頑張れ!」「諦めなければ道は開ける!」「死ぬ気で頑張れば乗り越えられる!」。世の中には、ポジティブな言葉がたくさんありますが、失敗や挫折を繰り返しているときはつらいだけでしょう。人は誰もが憂鬱と悲哀を抱えて人生を生きています。今回は「文豪たちの憂鬱語録」(豊岡昭彦、高見澤秀編著、秀和システム)を紹介します。

薬物中毒、自殺未遂、愛人関係…太宰治の絶望史

 青森で生を受けた太宰治の本名は、津島修治。津島家は大地主であり、父も名士として知られていました。太宰は学校の成績も優秀で、弘前中学に進学。当時は旧制中学への進学率が5%程度と言われていた時代です。家柄に恵まれたこともありますが、太宰少年はかなり頭がよかったのです。  さらに、旧制弘前高校に進学。ここで文学に出会います。後年に師事する井伏鱒二や、逆に猛批判することになる志賀直哉を愛読。中でも、太宰少年の心をとらえた作家は芥川龍之介でした。在学中に芥川が死去したことで、太宰は絶望への第一歩を踏み出します。  同人誌を発刊するなど文士としての道を歩み始める一方、在学中には1回目の自殺未遂を起こしています。どうにか卒業し、1930年、東京帝国大学文学部仏文科に入学。上京後、講義についていけなくなると「左翼活動に傾倒して投獄される」「津島家を分家除籍される」「カフェの女給・田部シメ子と心中事件を起こす(シメ子のみ死亡)」など“絶望キャラ”と化すのです。  1933年ごろから執筆活動を本格化させ、1935年には第1回芥川賞候補になります。この頃、「新聞社の入社試験に落ちて自殺未遂」「腹膜炎の手術からパビナール中毒に(鎮痛剤のパビナールの依存症)」「芥川賞に落選して選考委員の川端康成に激怒」「妻が不倫したことから夫婦で心中未遂 (後に離縁)」など、現在、よく知られる太宰像がほぼ完成するのです。  1938年の結婚を機に文士としての活動が動道に乗り始め、数々の名作を生みます。終戦後、太田静子との再会(戦前から深い関係にあった)や山崎富栄との出会いを経て、既婚の身でありながらそれぞれと恋に落ちます。1948年、富栄と玉川上水に入水(じゅすい)。38歳没。自己破滅的な一生を送った太宰だけに、名言の数々は他を圧倒しています。

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