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灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(107)

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「藤山オンリーの生活よ」  今の議員生活を聞かれるとあきは必ずこう答える。 「私の選挙のスローガンは清く正しく美しくでしたけれど、これを総理として実行できるのはこの永田町に藤山しかいないのよ。トップとして藤山に血の通った政治をやらせたいわ。政治は綺麗な雑巾でね」  選挙中から言ってきたことであるが、議員となり政治というものに内側から接していると、その気持ちはより一層強いものとなる。  昭和39(1964)年7月に行われる、自民党総裁選に向けて藤山は一心不乱であった。  いつも上品な姿勢を崩さない藤山の本気度は、身銭の切り具合から分る。  井戸と塀しか残らない「井戸塀議員」とのちに呼ばれる藤山は、総裁選の前年の解散総選挙で、まず自社株を手放した。日本ナショナル金銭登録機(NCR)社の80万株10億円、日東化学社40万株、レコードの日本コロムビア社の30万株だ。  その金が底をついたため、今度は総裁選に向けて再びまとまった原資を作らなければならない。  次に藤山が考えたのは、自邸の売却だ。 「白金台の屋敷は、元は牧場だったのを明治四十年ごろから大正末にかけて父が買い取ったもので、一万坪ほどあった。いまの明治学院大学の裏側で八芳園の東側はほとんど全部が私の屋敷内だった。本邸は昭和初期に父が建てたもので、述べ五百坪の二階建ての洋館だった。終戦によって米軍に摂収されたが、解除になってから、イタリア大使公邸として貸したこともあった。私はこの邸は住むには大きすぎると思っていたので、政界入りの時から、いずれは売ろうと考えていた」  と述懐している。  売却額は9億3000万円で、主な売却先は近畿日本鉄道。藤山は庭園だった一部分を残し、そこに住居を構えた。一部分といっても1000坪ある。  ちなみにこの当時の国会議員の歳費は14万円だったものが24万円と大幅に引き上げられたところだ。  あきには、とみにひどい話が耳に入ってくる。 「ある議員は芸者をあげた料亭のつけを、派閥の話をしたからと言って藤山に請求してきた」 「料亭に行き、価値のある金屏風に墨で落書きをする。そしてその弁償代金を藤山に請求する」  あきれてものが言えない話の連続だ。  あきは思う。 (こういう輩がでてくるのも愛さんという「金主」が永田町にいるからなのだ。しかし当の本人は「いいんだよ」と言うだけで、こっちの方がカッカとしてくる。自分は身内であるからいいが、これでは真に愛さんのことを思い一緒に政治を考えている人にはいい迷惑)  藤山の側近は、小沢佐重喜、江藤真澄、遠藤三郎といった派閥の幹部であるが、あきも末席をになっている。  藤山からみればあきは、永田町の中で敵というのがいない稀有な存在、そして新人、女性であるということで、ドロドロとした権力闘争から離れたところにいることが逆に良いと思っている。  藤山に言いにくいことは、幹部議員でもすべてあきを通して言ってくる。それをあきが多少はオブラートに包み藤山に伝える。その役割だけでも大変なものだった。  あきと藤山が話をするのは、時に、藤山が昔から贔屓にする「箱根ハイランドホテル」だ。もともとは団琢磨男爵の別荘をホテルにしたものである。 「このホテルは人をもてなすのに都合がいいんです」  と、接待に使用したり新聞記者を招くこともある。  ホテルでの藤山は、夕方6時45分になるとジャケットを着てロビーに現れる。ホワイトホースのハイボールを1杯。7時5分にもう1杯、そして7時15分になるとダイニングに入り食事をはじめるという自らのルーティンをきっちりと守る。  ラフな格好で入ろうとした他の客が、藤山を見てあわてて着替えてくることもあったという。  週末、藤山は妻を伴い、あきは1人、たまに孫をつれて別々にやって来る。  あきは通常の客室に泊まるが、藤山夫妻は庭の「コテージ」の26号室、一軒家の客室に泊まる。  週明けに新聞記者から「藤山さんは何を言われましたか?」などとあきは聞かれることもあるが、このホテルの顔となっている芝生のパティオ(中庭)で、ふた言み言案件について話をするくらいで、それぞれ緑の芝の上で絵をかいたり読書をしたり散策したりと、日常を忘れたひと時を過ごす。  十分に英気をやしない、正常な判断のできる心身のコンディションを取り戻す。そして週明けには魑魅魍魎の舞台に戻っていく。  藤山派は40人を超える派閥となっていたが、池田派、佐藤派に比べれば、まだまだ小さい。  派閥の領袖である藤山だが、かねてから「人と人のつながり」の派閥制度には疑問を抱いていた。藤山の理想の派閥は、あくまで「政策集団」という考え方である。  先の総選挙を思い出しても、自分の選挙区には事務所開きと最終日だけでほかの日は全部、派閥の候補者の応援に回った。そこで後援者から「当選したら、ウチの代議士を大臣にさせると演説で話してくれ」とお願いされるのだ。  やはり派閥とは立身出世、男の置屋みたいなところであるのかと、暗澹たる思いにもなるが、それを逆手にとっていかなくてはならないと考えを改める。  総選挙では6人が落選の憂き目にあい、2人が知事に鞍替えし、2人がのちに死亡した。元気に選挙を戦った人が2人も急死するというのは、改めて選挙の過酷さを思い知る。初当選し藤山派に入った新人2名もいる。  総裁選が近づくと議員たちの動きがより活発になる。  総裁選史上最も札びらが飛びかう権力闘争となっていく。 「藤山先生に投票します。うちの親分には悪いが、やはり総裁には藤山先生しかいない」 「そうですか。よろしくお願いします」  と、頭を下げて金一封を渡す。 「いつになっても大臣になれないから藤山派に入れてくれ」  と言い、もらうものだけもらって姿を消す議員もいる。  藤山派の方からも多数派工作を仕掛けていく。  1人の議員に狙いをつけポストや金をチラつかせながら説得し、派閥に囲い込む「一本釣り」、スパイを他の派閥にもぐらせる「忍者戦法」といわれるものが横行した。  平場の議員からは「ニッカ、サントリー、オールドパー」と言われる、二股三股をかけたり、投票先の態度をはっきりさせず、金をせしめる議員たち。  いったい誰を信じていけばよいのか分からないほど、その思いと金が入り乱れた。  これでは志を持ち政界入りした議員たちも、藤山というインフルエンサーを前によからぬ欲望に支配されていく。 「議員など来年はどうなっているか何の保証もない世界だ、選挙区では時に神のような扱いをされることもあるが、ここまでくるのには金がかかった。冠婚葬祭や、祭り、様々な行事が毎日のようにあり、それにはすべて金がかかる。そして、子飼いの地方議員たちの面倒、選挙となればもちろん名目をつけて金を渡す。こんなことをしていればおのずと金は消えていくし、締めればすぐにケチだと陰口を叩かれるのは間違いない。もらうものも大きいが出ていくものも大きいという財布事情で、日本有数の金持ちの藤山さんから金をもらうことは何ら悪い話ではない」  と自らを正当化する。  当の藤山は総裁選を目前に、羽がはえたように飛んでいく金について、ようやく「これはまずいな」と思うようになってきた。はじめざっくりと数十億の出費であろうと推定していたが、すでにその額を上回っている。  しかし、この流れをもう誰も止めることができない。自分が川の積を外し、大きな濁流を作り議員たちをのみ込んでいるのだ。  藤山は記者会見をひらく。 「池田内閣は経済、外交両面にわたり基本的な考えがなく、その日暮らしの政策だ」  と、事実上の総裁選出馬を公言した。  池田としては、総務会長のポストで藤山を取り込んだつもりだったが、辞任したいと直接言われた。  新派閥結成の動きを見せていた河野一郎は出馬をせず、早くから出馬の構えをみせていた佐藤栄作と藤山で、池田の三選を阻止する構図が決定した。 「どうせ1位になれないのなら、初めから佐藤に合流してもよいのでは?」 「佐藤・藤山連合にしたらよいのでは?」  との話が藤山派からでてくるが、藤山は耳をかさず突っぱねた。 (佐藤と組む? とんでもない話だ)  普段、自分の嗜好をとやかくいう藤山ではなかったが、佐藤栄作のことはどうしても虫が好かないのだ。  池田とは経済政策の根本が一致していないが、「キミはそういうが、オレはこうだよ」とはっきりと言い腹に何も残らない議論ができる。  しかし佐藤の場合は藤山が経企庁長官のとき意見を持っていくと「わかった」と言い、それでいて意見とはまったく別のことをするのだ。  自分も好かないのであるから、佐藤も好かないのであろう。  藤山は今から4年前、初めての総裁選の日を思い出した。  当日の朝となっても岸首相は藤山に「どうしても降りてくれないか」「いや、引っ込むわけにはいかない」と平行線の話から決着がつかず、党大会の始まる時間となり、日比谷公会堂に向かうべく国会のエレベーターにのりこんだ。  ところがそのエレベーターが止まってしまい20分ほど閉じ込められてしまった。一緒に閉じ込められた佐藤栄作から「降りるべき人が降りないから、エレベーターまでこうなるのだ」と突き放すようにいわれたことを思い出す。  その後、藤山は「党人派四者会合」と称する、大野伴睦、河野一郎、川島正次郎との会合に参加する。赤坂か柳橋の料亭で、4人で世間話や雑談、情報交換する。  佐藤栄作の悪口ばかり言っていたわけではないが、「アンチ佐藤の会」と受け取られていた。  渦中の藤山派では、この後に及んで藤山の出馬は時期尚早だと思っている人がほとんどだ。  側近中の側近、江崎真澄は、 「出馬には反対ですが、どうしても出るのなら、決選投票になると(誰も過半数以上取れなかった場合)、あなたのきらいな佐藤と組まねばなりませんよ」  この言葉に感情をめったにださない藤山が、 「その時は池田君と組む!」  と言い放った。 「そんな無茶な話はないですよ」  藤山派の内部は乱れに乱れていた。  藤山は、総務会長辞任を池田に申し出に行ったとき、 「キミは佐藤を助けずにオレを助けろよ」  と言いたかったのではないかと勝手な想像をする。  結局、小沢佐重喜が 「藤山さんの思い通り出馬させよう」  と相成った。  しかし藤山派の内部でも、岸派から流れてきた議員は、「2・3位連合で副総裁を狙うべきだ」との考えが根強く、投票日になっても派としての方針は決まらなかった。  藤山自身、票を勘定しても到底1位になれるとは思っていない。しかし出馬により自分のスジというものを通したいのだ。  7月10日文京公会堂。  第14回臨時党大会で総裁選挙は行われる。 「オリンピック選手だな藤山は」 「なんでだい?」 「出馬することに意義がある!」 「お、うまいね」  などと後ろの席で口の悪い議員らが話しているのを、あきはキッと睨む。  投票結果は池田242票、佐藤160票、藤山72票だった。  福田赳夫から「10票くらいはふやしてあげた」などと言われたが、藤山からすれば自分の票読みよりかなり少ないものだった。  池田が辛くも半数以上の票を集めたことで、決選投票はなくなった。  総裁選が終わった翌日から藤山は「箱根ハイランドホテル」へ静養に入った。  池田三選が決まると、世の中は目前にせまる東京オリンピック一色となった。 「ええ、ええ、わかりましたわ。なんとかしましょう、開会式の切符2名分ね」  あきは議員会館にかかってきた支持者からの陳情の電話に対応する。  オリンピックが終わるまで政治の方はひとまず休戦という状況になり、藤山は共産圏諸国を一度この目で見てみたいと外遊に出かけた。  ソ連でフルチショフ首相と対談をして、ポーランド、チェコスロバキア、ユーゴスラビアなど東欧をまわり、ロンドン、最後のワシントンの地に到着した。  そこで受け取った知らせは「池田首相は退陣することとなる」という思いがけない一報だった。  入院したのは知っていたが、まさか退陣する状況だとは。  予定を切り上げて、藤山は日本へと戻るべく機上の人となった。  あきとしてもお金をむしり取られた先の藤山大敗は悔しかった。これで総裁選はあと2年後だ、やれやれなどと思っていたが、現職首相の退陣により、また権力闘争が始まる。 「次こそは愛さんが総理になれるのではないか」  と期待と不安が入り混じり、落ち着かない日々となっていく。(つづく)

佐野美和

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