【書評】車窓から見つめる社会:矢貫隆著『いつも鏡を見てる』
幸脇 啓子
世の中の変化を誰よりも早く、そして自分ごととして感じる仕事とは何だろうか。タクシードライバーはその代表だろう。バブル景気や東日本大震災という歴史に刻まれるできごとも、彼らの目を通すと違った側面が見えてくるから不思議だ。そして今、コロナ禍の日本はどう映るのか――。
21世紀になって間もなく、私が出版社に入社したときには、バブル景気はすでに過去のものになっていた。 就職氷河期世代にとって、言葉は知っていてもそれはまるで“教科書に書いてあること”と同じくらい遠く、関係ない存在でしかなかった。 バブルと言われて今も思い出すのは、1980年代半ばから始まったバブル期に入社し、生で経験した上司たちが話してくれた、当時のタクシーにまつわるエピソードだ。 「新人の役割は、飲み会の後にタクシーを止めること!道で手を挙げたって止まってくれないんだから」 「一万円札を何枚も手に挟んで、六本木の道路の真ん中で振り回したこともある」 「タクシーが捕まらなくて、『仕事できねえな!』って怒られたなあ」 一万円札を何枚も挟んで? 道路の真ん中で? たった10数年前の東京にそんなことがあったのかと、にわかには信じられないような、ギラギラした話だった。 その数年後には日本にもリーマンショックが不景気をもたらし、テレビ局や出版社、霞が関の官庁といった深夜族が働く場所には、客を求めてタクシーがズラリと並ぶ光景が見られるようになった。 朝方まで締切に追われた後、徹夜明けでタクシーに乗りこむと、「3時間待ってあきらめかけていた」とか、「初乗り料金のお客さんが増えて困っている」とか、切実な話を聞いたことも印象に残っている。 本書を読み、そんな思い出がよみがえってきた。 あらためて、タクシーは世の中というものをはっきりと、そしてすぐさま映し出す鏡のような存在だと感じる。
それぞれの物語がタペストリーに
著者は、自らも京都と東京でタクシードライバーの経験を持つノンフィクション作家。本書は1970年代の京都から始まり、2020年のコロナ禍の東京までの日本の移り変わりを、タクシードライバーの目線で描いている。 章ごとに違うドライバーを主人公に据え、それぞれの生活と社会の変化とを重ね合わせていくことで、大きな時代のうねりと市井のドライバーの目線とが交わり、オーラルヒストリーを読んでいる気分だ。 減反政策のあおりを受け、自己破産の後、有り金を握りしめて東京に来た50代のドライバーもいれば、ありがちだという“タクシードライバーとホステス”との恋も出てくる。 一社が長続きせず、タクシー会社を点々と動く人間もいる。 所属も生い立ちも異なるドライバーたち個別の物語かと思って読み進めていると、思わぬところでつながりが描かれ、最後には一枚の「絵」を織りなしていく構成は、映画「スモーク」をほうふつとさせる。 たとえばあるドライバーにとって、バブルはこう始まる。 「たいした距離も乗っていないのに、一万円札をだし『釣りはいらないから領収書だけくれ』と言った。最近、そういうことがよくある」 なんともリアルだ。 バブル崩壊後は、助手席に置いたクーラーボックスに缶ビール、日本酒、焼酎、ウーロンハイにコーラを入れ、柿の種からチョコレート、ドーナツまで用意して霞が関で待機。千葉や茨城まで官僚を運んで短時間で5万円ほどを稼ぐ。 新聞で「居酒屋タクシー」と大きく騒がれる、数年前のできごとだ。 世の中が動き、客が変わるなかで、ドライバーたちは大きな波に上へ下へと揉まれながら、生き抜いていく。肉体的にも精神的にも、楽な仕事ではないだろう。 それでもどことなく本書があたたかいのは、ドライバーたちのちょっと雑で、でも互いを思いやるやりとりが人間味あふれているからかもしれない。 勤務後にタイヤのホイールを再利用した灰皿を囲み、煙草を吸いながら愚痴りあう様子などを読むと、なんとも応援したくなるのだ。 それはまた、著者から古巣に向けた愛、でもある。