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【提言】東京五輪「3.11開催も」日本外交の「見識」を示せ

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   周知の通り3月24日、東京五輪・パラリンピックの「1年程度の延期」が決まった。  そしてそのわずか6日後の30日、2021年7月23日の金曜日に開会式開催、と具体的な「新日程」も発表された。  これについて同日付の米紙『USAトゥデイ』(電子版)は、「国際オリンピック委員会」(IOC)を厳しく批判した。新日程が発表されたことに対するもので、 「IOCは無神経の極み」  と断じた。  たしかに、世界中が「新型コロナウイルス」と生死をかけた戦いを展開しているのに、なぜ慌てて1年後の日程を発表するのだ、という疑問は理解できる。  ただ、どのような内部事情があるのか筆者には分からないので、五輪開催日程決定についての事情と、この記事の真の狙いについては論じないが、日本国内には、早期の開催日決定を歓迎する向きがあったことは確かだ。  しかし東京五輪延期の最大要因である、新型コロナ克服の見通しがまだ立っていないのに、その後の予定の方が重要だという判断は、いったいどこからくるのだろうか。  五輪が人類の平和を願うためのものであるならば、人類全体の喫緊の課題に全力で立ち向かうという姿勢を、後回しにしてよいのだろうか。  パンデミック状態にある欧米との危機意識の違いはもちろんあるだろう。しかしその違いはあまりにも大きい。冒頭の『USAトゥデイ』の記事にこめられた思いは、そこにあるのではないだろうか。 ■問われる日本の国際認識  大会延期の問題については、関係者から延期や中止といった発言が出ないので、いち早い延期決定提案をフォーサイトに寄稿した(『【緊急提言】「文化外交」の観点から「五輪延期」いますぐ日本が決断を』 2020年3月24日)ところだったから、その後の政府の迅速な対応は評価したい。一刻の猶予もならないという危機意識を、筆者も持っていたからである。  それにしても、日本の延期決定がもう1週間でも早ければ、世界の評価はまた違っていたのではないかとも思う。ドナルド・トランプ米大統領が複数回にわたって東京五輪開催の延期を容認する発言をしたり、海外競技団体や参加予定選手の出場拒否発言が、陸続と出始めていたからである。  その意味で、延期決定は日本の積極的な姿勢というよりも、日本に対するネガティブキャンペーンの拡大防止が可能な、紙一重のタイミングだったのではないか。  筆者がなぜ一連のオリンピック延期をめぐる展開にこだわるのか。それは、こうした1つ1つのことが、日本人の国際認識や外交見識に繋がると思うからである。逆に言えば、日本の姿勢に対する海外の評価にかかわってくる。  今回の東京五輪には、「3.11からの復興」という大義名分がある。  世界の人々には、東日本大震災と東京電力福島第1原子力発電所の原子炉メルトダウンによって、悲惨な状況にあった日本に同情する気持ちが多くあった。  五輪は景気浮揚につながるイベントであることは確かだ。だが、それが第一義ではない。もちろん日本の五輪開催当事者も、そんなことはい言っていない。  世界的な意義あるイベントだから延期は大変残念、ということもだれも否定しない。  しかし、日本の報道はどちらかというと延期による経済的損失の方に偏りがちであった。それを海外のジャーナリストたちも見ているはずだ。 ■もう1段高いレベルの日本外交へ  筆者自身は、前回の東京五輪(1964年)のときは小学生だったが、世界中の人々が集まり、さらに日本人選手もある程度活躍したことで、日本が世界の一員であり、堂々たる国として認められたことを、子供心にもなんとなく理解できた。  しかし、それから半世紀以上が経った。現在の日本は、ようやく世界の人たちを迎え入れるようになった、というレベルの国ではない。高度経済成長、GDP(国内総生産)世界第3位、ホンダ・トヨタ・日産が世界の自動車市場を席巻し、堂々たるハイテクの国、バブルで世界の土地を買いまくった国――。  その後バブルは崩壊したが、それでも革命がおこるわけでもなく、依然として、急成長した中国の次に連なる世界3位の経済大国である。  欧米とは、正しい意味での個人の生活水準に格差があるにしても、世界有数の安定した国であることには変わりはない。  だとすれば、その国力に見合った見識が問われても仕方がない。  今回の五輪は、1964年の東京五輪の再来ではない。日本の内外を取り巻く環境は大きく変わり、五輪を通して日本に期待される国際的役割も、大いに変わっているのである。  実はこのことが、日本ではまだよく理解されていない印象をぬぐえない。スポーツ・文化イベントにはいろんな利権が絡んでいる。表向きのキレイごとでは済まない。だからこそ万全の注意をして、スポーツイベントの大義を進んで示すべきである。  安倍晋三首相は当初、「1年をめどに」開催延長を考えたい、と発言した。それが「1年以内」ということに落ち着き、最終的には来年夏ということになった。  会期の正確な日程を決めることで、大会関係者の気持ちを落ち着かせたいという心理は理解できる。準備の都合もあるだろうから、関係者の直接の行動予定をどうするのか、という喫緊の課題にこたえる意味もあろう。それは誰もがよくわかる。大変な事業である。  しかしだからこそ、「原則1年以上」の延期とし、正確な日程は世界が落ち着いてから決めたい、となぜ言えなかったのだろうか。  実際には、この1年後というのも不確かだ。逆に予想より早く世界が立ち直ったなら、折を見て少し早める提案をすればよい。何も今慌てて延期後の日程を決めることはなかったのではないか。  むしろ日本は、地球規模の課題である新型コロナ感染と戦うための、世界との連帯の姿勢を強調すべきだった。「平和の祭典」の開催国・日本の見識を、あらためて世界に知らしめる好機でもあった。  そのうえ、ただでさえ日本の夏は暑いといわれているのだから、世界が急速に落ち着いてくるなら、「世界から桜を見に来る」開催という形で、時期を早めることもできたかもしれない。「3.11オリンピック」もよいではないか。  一言で言えば、それを言わしめるのは日本のグローバルな「見識」なのだ。  日本のソフトパワーは、「やさしさ」や「思いやり」とか「自然を大切に」といった、表向きの、現象面だけのものではない。むしろそうした繊細さや柔軟性が、普遍的な世界観や、その実現のための志を基礎としているからこそ、日本のソフトパワーはより真価を増し、高い評価につながるはずだ。  理想論ではあるが、それぞれの局面での心遣い1つで、それは大きな力となるはずだ。それこそ「ソフトパワー」の背景にあるものであり、文化外交である。  しかし、これは決して理想だけで実現することではない。理想を持ちつつ、日常的な社会・国際認識を地道にリアルに観察し、行動につなげていく努力をすることによって、実現できる。その意味ではリアリズムでもある。  それはどうしたら育成できるだろうか。筆者はそれを、米欧に比肩するだけの国際的に通用する日本のデモクラシーの成長に求めたい。そのことについてはあらためて論じたいと思う。  

渡邊啓貴

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