中国皇帝の「乳母」たち─玉座の背後にちらつく乳房の威力
――― 2020年、クーリエ・ジャポンで反響の大きかったベスト記事をご紹介していきます。8月7日掲載〈中国皇帝の「乳母」たち─玉座の背後にちらつく乳房の威力〉をご覧ください。 ――― 「乳母」と聞くとどんな人を思い浮かべるだろうか? 現代日本には、文字どおりの乳母はもうほとんどいないかもしれない。中国でも同様だが、乳母という呼び名は残っているという。香港メディア「サウス・チャイナ・モーニング・ポスト」の記者がちょっとした個人的な話から、中国の王宮に仕えた乳母の歴史をたどる。 【画像ギャラリー】「何人もの母親」が授乳し、子供を育てるブラジル先住民のクラホ族 友人のきょうだいが出産予定で、子守になってくれそうな人を探している。欲しいのは、子守も家事もするお手伝いさんでなく、赤ん坊のすべての身体的欲求に気を配る専門の世話係だという──ただし、おっぱいをあげるのは含まれない。 いまだと反感を覚える人もいるかもしれないが、20世紀に調製粉乳が発明される前は、我が子に授乳できない・したがらない母親に代わって乳母が雇われたものだ。 現代の子守のことをいまだ「乳母」と呼ぶ中国人は多いが、それはもはや仕事の中身とはまるで合わない、時代遅れの肩書きということになる。 乳母を雇えたのは、当然ながら、裕福な家だけだった。中国の由緒ある特権階級の家庭では、実母以外の女性が赤ん坊に授乳することが珍しくなかった。
皇帝が実母より乳母に愛着を抱くことはままあった
乳母が皇子皇女に仕える場合は、宮中のすべてのこと同様、厳密な手続きを経なければならなかった。 年齢、容姿、健康状態が乳母候補の選考基準で、さらに乳の粘度や色も調べられた。 たとえば明朝(1368~1644年)では、王宮のすぐ外に「乳府(奶子府)」があり、宦官の長が管理していた。そこには乳母となる女性が40人住まわされた。さらに80人が各自の家でスタンバイしていた。 すべての乳母候補は15~20歳の既婚者で、「端正」でなければならなかった。不思議なことに、宮仕えの乳母は、女児を産んだ者が皇子に、男児を産んだ者が皇女に授乳する決まりになっていた。 皇子皇女は乳母と親密につながり、大人になっても、実母より乳母に愛着を抱くこともままあった。 清朝の若き順治帝は、1659年に謀反が起こると、自ら軍事作戦を率いて鎮圧すると言い張り、大臣や母の皇太后が諭しても耳を貸さなかった。 そこで母は、息子のところに元乳母を送り、どうか出陣なさいませぬようにと懇願させたのだ。それでようやく、この気短な21歳は折れて、戦を将軍たちに委ねたのだった。 皇帝たちは、乳飲み子の頃に世話してくれた元乳母たちに、褒美として称号を与えることがよくあった。 順治帝の元乳母は、彼の息子で将来の康熙帝の世話もした。1677年には皇帝の乳母として最高の称号が与えられ、その4年後に亡くなったときには手厚く葬られた。康熙帝は在位中、彼女の墓を4度も個人的に参ったと記録されている。