SMAPと日本文化の30年
日本は「アイドル=偶像」文化の国
少し前、映画監督の篠田正浩氏との共著で『アイドルはどこから』という本(*4)を出した。ジャニーズ事務所や、AKBや、全国各地のゆるキャラや、マンガ、アニメ、ゲームなどのキャラクターといった、現代アイドルから日本文化の淵源に遡ろうとするもので、結果、われわれは仏教と天皇に突き当たった。 日本のお寺は、どこへ行っても「御本尊」という仏像を拝まされる。 そもそも仏寺における本堂とか金堂とかいうものは仏像の囲いであって、人間を容れる建築ではない。それがキリスト教の聖堂やイスラム教のモスクとの違いである。またインドや東南アジアは、彫刻を施した建築(塔)そのものを拝む傾向にあり、仏像はあっても御本尊という感覚ではない。 日本仏教は一大偶像崇拝教なのだ。その偶像の制作に魂を入れることが、現代のものづくりもつながっている。 また歴代天皇も、藤原時代にはまだ年若い子供が擁立され、摂政、関白、上皇などが実権を握った。そして世界でも例を見ない長期にわたって、日本国の政治と文化の象徴偶像でありつづけた。 イスラム教は厳しく偶像崇拝を禁じているし、ユダヤ教も、キリスト教も、基本的には偶像崇拝を禁じている(*5)。大陸の文化は、偶像を廃し、理と知によって教義を拡大するという、一種の精神革命プロセスを経験しているのだ。 しかしこの島国の文化においては、昔も今も「アイドル=偶像」が共同幻想(*6)における象徴的な具体像として強い力を維持してきた。最近の世界的ベストセラー『サピエンス全史』(*7)でも、人間の社会にはたらく「想像秩序」の力が強調されている。
戦後日本の「アイドル=芸能偶像」たち
SMAPの前は、松田聖子の時代であった。 その前は、山口百恵の時代であった。 戦後日本の国民の生活が、ものづくり技術による経済発展とともに歩んできたのと軌を一にして、戦後日本の国民の情緒は、ラジオ、映画、テレビ、インターネットなど情報技術の発展をつうじて、芸能偶像とともに歩んできたのだ。SMAPの時代を考える前に、そのあらましを追ってみよう。 1940年代後半~50年代・復興期 日本人は焼け跡から立ち上がろうとしていた。 棚の上のラジオから美空ひばりの歌声が聴こえる。左のポッケにはチューインガム、右のポッケには夢があった。三橋美智也も春日八郎も聴こえた。『別れの一本杉』は、東京と地方の切実な精神関係を象徴していた。 一方で若者たちは、日劇ウェスタンカーニバルにおいて、プレスリーを真似たロカビリーに興じた(*8)。アメリカとの格差は埋めようがなかった。映画の時代でもあった。湘南の不良少年を描いた『太陽の季節』で、慎太郎と裕次郎の石原兄弟が喝采を浴びた。日本人は新しい時代に挑戦しようとしていた。 1960年代・成長期 街頭から家庭に入ったテレビという箱に浮かび上がったのは、ザ・ピーナッツや坂本九、渡辺プロダクションが今のジャニーズ事務所のように君臨した。繁栄を続けるアメリカのポップスを日本語に翻訳して歌っていた時代だ。経済は高度成長に入り、豊かさへの歩みは着実なものとなり、アメリカとの格差も縮まってきた。 1960年代後半~70年代・転換期 エレキギターを代表とする電気技術が、若者の音楽を根底から変えた。媒体はレコードからカセットテープへと変化した。新しい音楽の世界的スーパー・スターがビートルズであり、その日本版がグループ・サウンズであったが、これを契機に、ポップスは翻訳から和製の時代に転じた。 一方、ベトナム戦争を進めるアメリカとそれに従属的な日本の政治体制に対する「抵抗」が、フォーク・ソングのブームを生んだ。僕は同世代でもある吉田拓郎の歌詞と曲に共感した。学園から政治への紛争の中、過激派は機動隊と衝突し、青春は甘いものから苦いものに変化した。 その苦さを慰めるように登場した歌姫が山口百恵である。燃え盛った炎が消えたあとのスーパー・アイドルとなったが、彼女の表情には単なるアイドルを超える哀愁と諦念がにじみ出ていた。 1980年代・バブル期 二度にわたるオイルショックを乗り越えて、日本経済は再上昇、破竹の勢いをもって世界を席巻する。バブル時代だ。媒体はテープからCDへと変化した。デジタル化によって音響と映像のコピーは無制限に広がる可能性を獲得する。 松田聖子はこの明るすぎる時代のスーパー・アイドルであった。百恵のような陰を感じさせず「ぶりっ子」とも呼ばれた。人々は泡沫のように膨らんだ夢を存分に謳歌した。