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相次ぐ転属。新型偵察機「彩雲」が待っていた。胴体の割に主翼が小さい。揚力を得るのに時間がかかる。高度500メートルの前にフラップを閉じると失速した〈証言 語り継ぐ戦争〉

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南日本新聞

 1944(昭和19)年8月、フィリピンから佐世保海軍航空隊(長崎)に帰還した私は、偵察員の松八重迪雄(みちお)上飛曹と2人、第六三四航空隊偵察三〇一飛行隊への転属を命じられた。飛行隊がいる横須賀航空基地(神奈川)へ向かった。  第六三四航空隊は、後部主砲塔を取り払った跡に飛行甲板を設け、「航空戦艦」となった「伊勢」「日向」用に編成された航空隊だった。私の担当は変わらず、3人乗りの零式水上偵察機(零式水偵)だったが、主力機は新型の2人乗り水上偵察機「瑞雲」だった。  瑞雲は、急降下爆撃もできる高性能機。しかし、訓練のために移動した指宿海軍航空基地では、燃料パイプの不具合で飛行中、エンジンが止まるトラブルが相次いだ。当初は瑞雲の搭乗員をうらやましく思っていたが、すぐに「安心して飛べる零式水偵の方がいい」と思い直した。  10月になり、第六三四航空隊は、日米両軍の決戦が佳境を迎えつつあったフィリピンに進出することになった。「2度目のフィリピンは生きて戻れないな」と思っていたら、10月17日、瑞雲隊だけが進出を命じられ、零式水偵の搭乗員には第七六二航空隊偵察一一飛行隊への転属命令が来た。

 フィリピンに向かった瑞雲隊の生還者は68人中9人だったと、戦後知った。  18日、偵察一一飛行隊の訓練拠点である鹿児島市鴨池の鹿児島海軍航空基地に行くと、新型偵察機「彩雲」が待っていた。  私にとって、車輪が付いた飛行機は初めて。慣れるために、「赤とんぼ」と呼ばれる一三式中間練習機から再入門した。  前席で操縦かんを握り、後席に松八重上飛曹を乗せ、鹿児島基地を飛び立った。離陸すると、突然、操縦かんが動かなくなった。  後席の操縦かんを外した後の可動部を、松八重上飛曹が足で踏んづけていたためで、危うく帆掛け船のマストにぶつかるところだった。寸前に松八重上飛曹が足を離し、事なきを得たが、冷や汗をかいた。本人は着陸後、土下座で「ごめん、ごめん」と謝った。  新たな乗機の彩雲は、高々度で高速を出すために、胴体の割に主翼が小さく、2段階のフラップで揚力を得る構造をしていた。揚力を得るのに時間がかかるため、高度を500メートル取る前にフラップを閉じると失速した。

 訓練中に3機の彩雲が墜落した。そのうち1機は12月12日、私が暖気運転を担当して、台南航空隊(台湾)から着任したばかりの操縦員に引き渡した機体だった。離陸後すぐ失速して左によれ、鹿児島市稲荷町に落ちた。幸い市民に死傷者はなかったが、搭乗員3人全員が死亡した。  フラップの癖も十分伝えたつもりだが、「きちんと伝えられなかった」と、しばらくは自責の念にとらわれたものだ。 ※2016年9月8日付掲載

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