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プロ野球とインフルエンザ/温故知新のプロ野球

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週刊ベースボールONLINE

タイガースの歴史が変わったかも?

 きょう発売の週刊ベースボールの特集は、6月19日開幕に向け、本格的に動き出した12球団の戦力分析だ。  ここでは、その1冊の中から、プロ野球の歴史を振り返った企画を抜粋、加筆して紹介する。  新型コロナウイルスの世界的な感染拡大で、過去のパンデミックの例に挙げられることが多かったのが「スペインかぜ」だ。  1918年から20年にかけ、一説では世界で5000万人以上の死者を出し、日本でも39万人近くが命を落とした。  ほかにも、幾度となく大きな被害をもたらしたインフルエンザがあったが、36年のプロ野球スタートからで考えると、「アジアかぜ」と呼ばれた57年の被害が一番大きかった。  今回同様、中国から始まったと言われるインフルエンザで、世界で100万人以上、日本でも、子ども高齢者を中心に5700人ほどの死者が出たと言われている。特に高齢者に関して細かく死因を検査した時代ではないので、おそらく国内では、その数倍の死者がいたのではないかと推測される。  時代もあって、試合スケジュールの変更や感染拡大防止策などは特に取られていなかったようだが、プロ野球への影響は少なからずあった。  これもまた(と書くと申し訳ないが)、阪神の被害が大きく、『阪神タイガース 昭和のあゆみ』によれば、5月末からチーム内で流行が始まり、一時はベンチ入り可能な選手が15人前後まで減ってしまった。  当時選手登録を抹消すると1カ月は再登録できないというルールがあったのだが、この非常事態を受け、コミッショナーが支配下選手ならいつでも登録でき、登録と同時に試合に出場しても差し支えないという特例を救済処置として設けた。  それで人数だけは確保した阪神だったが、特に投手陣の離脱者が多く、四苦八苦の戦いがしばらく続いた。  6月4日から13日までは7連敗で、2位から4位まで順位を落とし、最終的には、8厘差で巨人に届かぬ2位となった。  ここで「たら・れば」だが、このインフルエンザによる連敗がなければ優勝の可能性も十分にあり、そうなればミスタータイガース・藤村富美男監督が、2位に入りながら退任という不可解なことはなかったはずだ。  藤村は翌年を一選手として過ごし、不遇のまま引退。二度とタテジマのユニフォームは着ていない。  タイガースの歴史を変えた出来事と言っても大げさではないかもしれない。  阪神と同様、大洋(現DeNA)の被害も大きく、5月16日から11連敗(1分)もあった。ただし、大洋は開幕から5連敗、4月7日(ダブルヘッダー第2試合)からの8連敗などもあり、必ずしも離脱者が出た影響ばかりとは言えない。  ついでにもう1つ昔話を書いておく。  6月1日に5節までの日程が発表されたが、今季は移動を減らすため、セ・リーグの3球団は開幕5カードまでが首都圏開催となる。  巨人であれば開幕からの15試合中12試合が東京ドーム、3試合が神宮であるが、集中開催は、本拠地制度がなかった51年までは当たり前のことでもあった。  終戦後、再開された46年のプロ野球を見てみる。  当時1リーグ8球団制だったプロ野球は、後楽園(東京)と西宮(兵庫)の2球場で4月27日に開催された(甲子園はGHQの接収が解除されていなかった)。  カードは後楽園が、  巨人─セネタース(現日本ハム)、ゴールドスター─中部日本(現中日)、  西宮が、  近畿グレートリング(現ソフトバンク)─阪急(現オリックス)、阪神─パシフィックで、いずれもダブルヘッダーだ。  翌日、さらに翌々日と組み合わせを変えて4球団総当たりで試合を行っている。当時、入場料収入は一度プールし、勝率によって分けられることになっていた。  シーズン全体の動きについては、同年シーズン2位の巨人を例にし、開幕からの球場名、試合数だけ列記してみる。  後楽園4試合、藤井寺1試合、西宮2試合、後楽園6試合、西宮4試合、後楽園8試合、西宮8試合、後楽園5試合、西宮3試合、後楽園9試合、西宮5試合、札幌円山3試合、後楽園12試合、西宮5試合、後楽園13試合、西宮12試合、後楽園5試合。  10試合以上連続が3回。他の7球団も同様なのだが、ほぼ後楽園と西宮の往復だった。    巨人は札幌のみだが、ほかは、合間に数球団で組んでの地方遠征も入っていた。移動は一部の座席がはぎ取られ、板が敷いてあるような列車で、選手はゴザを持って行き、通路に寝た。荷物は常に監視していないと、盗難に遭い、時には中国人、朝鮮人の強盗に白昼堂々、襲われることもあった(戦勝国の彼らには警察も手出しできなかった)。  それでも選手たちは地方遠征と聞くと歓声をあげた。農家が多く、食料が豊富だったからだ。ギャラも金に加えて米やジャガイモの現物支給にしてもらい、それを帰路はバットケースやバックに詰め、担いで帰った。選手の中では、現地で闇米(国が決められた販路以外から購入した米)を買い、時には警官につかまり、没収されることもあったという。  都市部の旅館に泊まる場合、米を持参しなければ食事を出してもらえなかった時代の話だ。  2018年、東京オリンピックに向け、「野球くじ」の要請がありながら実現しなかったことは記憶に新しいが、球界の歴史の中で、唯一、採用していたのが、この時期だった。  46年6月29日に第1回を発行し、50年3月まで続けている。  国からの要請で、ほかに入場税の一部を満蒙引揚者(国策もあって大陸に移住し、敗戦で帰国した人々)のために提供していた。  野球くじは、大蔵省が勧業銀行に実施させたもので、券は最初1枚10円(のち20円)で、試合が終わるとすぐ抽選が行われ、その場で1000円の賞金が渡された。抽選の際、いつも流れていたという歌の歌詞がこうだった。 砂塵蹴立てて熱球はずむ 運の紅白だんだらくじに 賭けて振ったかヒットのランプ 赤い太陽がカッと照る  もちろん、今の宝くじ同様、最後に勝つのは国だ。流通するお金を政府が吸い上げることで人々の購買意欲を薄れさせ、物資不足から起こったインフレを抑えるためだったという。  ほかにも預金を自由に引き出せないような処置が取られたというが、効果はどうだったのか。 文=井口英規

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