衝撃!! 目前で大型旅客機つくってる…「大人の社会科見学」できる驚きのホテル行くには?
レントンが好立地だった理由
工場で組み立てられたボーイング737MAXは、隣接するレントン市営空港の滑走路を飛び立ってシアトルのキング郡国際空港にあるボーイングの施設へ移されます。大部分の機体はここで納入先である航空会社のカラーリングに塗装され、完成後に顧客へ引き渡しとなります。 ボーイングは同じワシントン州にエバレット工場も構えており、通路を2本備えた双発機の787や777などを組み立てる様子を筆者は2016年8月に取材しています。エバレット工場は前方が2階建てになった「ジャンボ」こと747を組み立てるため、1967年に操業が始まりましたが、レントン工場はより長い歴史を持ちます。なぜこの地に航空機工場を設けることになったのでしょうか。 敷地は1916年にワシントン湖の一部を埋め立てて造成され、もともとは地元の実業家が石炭を貯蔵するのに使う計画でした。ただ、この計画は幻に終わり、航空機工場としての産声を上げることになったのはアメリカ海軍の戦略が大きく関係しています。 1939年9月の第二次世界大戦勃発や日米関係悪化を受け、アメリカ海軍は太平洋で日本などと戦う場合に大型飛行艇が必要になると考えました。そこで1941年9月、この土地で飛行艇工場の建設に着手しました。地元のアメリカ人は「ワシントン湖に設けたスロープを発着できる飛行艇の生産には好立地だった」と説明します。 こうして、ボーイングが海軍向けに開発した飛行艇が、XPBB「シーレンジャー」でした。
太平洋戦争の勃発で事態が一変
ところが、1941年12月の日本軍による真珠湾攻撃で、戦争の様相が一変します。飛行艇の必要性が大幅に低下したことに加え、アメリカ陸軍航空軍(現在のアメリカ空軍)の大型爆撃機B-29「スーパーフォートレス」による大量投入が日本に打撃を与えるのには有効と判断されたことから、レントンはB-29の主力工場に転換されました。 この結果、XPBB飛行艇はレントン工場が生んだ最初の製品になったものの、試作機1機だけで幕を閉じています。 B-29の1機目は1943年12月に完成し、併設されたレントン空港で初飛行します。戦争末期の1945年7月には月160機の生産態勢を整え、B-29の工場で最多となりました。 工場は操業を停止した1946年までに1122機のB-29を送り出しています。 工場は休止後に「サーカスのゾウなどの一時滞在場所にも使われた」(ボーイング)そうですが、1949年に息を吹き返します。B-29を発展させた空中給油機KC-97が組み立てられるようになったのです。ほどなくして旅客機の生産も始まり、中でも1967年4月に初飛行した737は、世代を重ねて累計生産機数が1万2000機に迫る世界最多のジェット旅客機種へと成長しました。 ボーイングはレントン工場を「世界で最も効率的な航空機工場」と豪語します。そんな言葉とは裏腹に、労働組合が2024年9月に約16年ぶりとなるストライキに突入したため稼働停止に追い込まれています。 労組は11月4日、4年間で38%の賃上げなどを盛り込んだ労働協約案を受け入れてストを終結させました。これにより、ハイアット・リージェンシー・レークワシントンにも、隣接する航空機工場の作業風景を垣間見ることができる日常が戻ったようです。
大塚圭一郎(共同通信社経済部次長・鉄旅オブザイヤー審査員)