「義の武将」は作られたイメージにすぎない…上杉謙信を越後に縛り付けた「肩書」へのこだわり
また、謙信自身がどのように考えていたかはさておいて、関東管領の肩書を持っていたところで、関東に領土を得ることはできませんでした。関東の武将たちが、関東管領と主従関係を結び、本質的に謙信の支配下に入るというわけではないのです。言うなれば、関東管領はあくまでも関東の武将の兄貴分的な存在に過ぎない。親分と子分というような主従関係ではないということです。 そもそも、世は下剋上の戦国時代です。もはや室町幕府の秩序や肩書は意味をなさない時代に突入していました。戦国の世に「肩書」を本当の意味でありがたがる武将はいなくなっていたのです。
■「室町幕府」が示す秩序を信頼した上杉謙信 室町幕府が示す秩序の例で言えば、「天下」という言葉は、幕府がある京都を中心とした畿内の秩序の意味だという説があります。このように天下を室町幕府を中心とした限定的な意味で捉えることで、天下統一を目指した織田信長は、ただ単に上洛することを目指しただけであり、日本全国を統一しようとしたわけではないという指摘がされています。 近年、かつての天才的な戦国武将から、ごく一般的な戦国武将へと、信長のイメージを変えるような話にしばしば接しますが、私はそうではないと考えています。信長が打ち出した「天下布武」とは、やはり日本全国を武力でもって統一するという当時の戦国武将にとっては稀有なビジョンであり、室町幕府の秩序を前提とした畿内を指すのではないのです。
その意味では、本稿で中心として触れている3人の戦国武将、織田信長・武田信玄・上杉謙信を比べるとすると、室町幕府が示した秩序を最も信頼していたのが上杉謙信だったのだろうと思います。 織田信長は全く当てにせずに、自分独自の天下統一ビジョンを打ち出しました。これに対して、謙信ほどは信じていないけれども、その「肩書」が持つ力を認め、利用していたのが武田信玄だったと言えるかもしれません。というのも、信玄は信濃を制圧した段階で、自らを信濃守護に任命してくれるよう、室町幕府に求めています。