清原正吾“モデルの母”の前で…「正吾と一緒にコントを披露した」慶大の親友が明かした“清原家の優しさ”「(清原和博が)高橋由伸さんのサインを…」
事件時の回想「家に遊びに行けず…」
小学6年生になると正吾がセカンドを、福住がショートを守った。だが、幼なじみの二人が中学進学を迎える頃、清原和博の薬物騒動が世間を震撼させ、正吾の両親は離婚。清原家の周りを報道陣が取り囲む喧騒の日々が訪れる。 常に正吾のそばにいた福住は、慎重に言葉を選びながら当時をこう回想した。 「記者の方々がたくさんいたので、家に遊びに行くこともできませんでした。僕も子どもだったので、どういう感情を抱けばいいのか分からなかった。ただ、学校での正吾は何も変わらなかったですね。正吾がいつもの正吾なんだから、僕らは普通に接するだけでした。アキアキは大変だったと思いますが、子どもの前では不安な姿をいっさい見せなかった」 正吾は両親の離婚や父が事件を起こした当時のことを、筆者が担当した「Number Web」のインタビューでこう振り返っている。 「一度は、父親のことが嫌いになりました。あの頃は野球からも目を背けたくなってしまった。(中略)家族である僕自身も驚きましたし、騒動の時は家から出られない状況が続きました。でも、学校には一日も休まず通いました。(中略)自宅ではお母さんが一番大変だったはずなのに、僕たちの前では涙ひとつ流さず、寂しい顔も見せなかった。長男として、弟に『お母さんには迷惑をかけないようにしよう』と伝えていました」
入部を断られることもあった…
中学は正吾が慶應普通部、福住が慶應中等部に進んだ。正吾はバレーボール部に入部し、野球とは距離を置いたが、それを福住は意外には思わなかった。 「当初、中学生に上がったら硬式野球のチームに入ろうと考えていたみたいなんです。ところが、(父・和博の事件を受けて入部を)断られるようなことが続いたみたいで……。それで野球に対してマイナスな気持ちになって、離れたくなったんじゃないかと思います」 当時、野球に励む正吾に携わっていた人は、誰も彼が野球をやめることに反対しなかった。彼の置かれた状況を案じ、平穏な生活を送れるように願っていた。 関係者の中には、正吾が野球を続けることに、母の亜希が反対した、と証言する人もいた。野球を続ける限り「清原」の名がついて回り、正吾に重圧がのしかかる。だからこそ、母として野球と距離を置くことを願い、正吾も母の不安を取り除くために野球をやめたのだ、と。福住はその意見に首を傾げた。 「母親思いではあるけれど、あいつは自分の人生はちゃんと自分で選択するし、取り組むことに優先順位をつけるタイプ。そんな理由で野球をやめたとは思えません」
突然の報告「大学で野球をやるよ」
普通部時代にバレーボール部に所属した正吾は、慶應高校進学のタイミングで今度はアメフト部に入部する。それには慶應高、慶應大とアメフト部で活躍し、現在も富士通でプレーする福住の兄の影響もあった。 同じタイトエンドというポジション、同じ「87」という背番号を受け継いで、正吾はアメフトで活躍。すると神奈川県選抜にも選ばれ、「いずれは日本代表クラスに成長できる逸材」と高校関係者が証言するほどの運動神経を発揮した。 しかし、正吾はアメフトもやめることを決断する。 「(大学では)野球をやることにしたんだよね」 福住が正吾からそんな言葉を聞いたのは、高校3年生の夏だった。 〈つづく〉
(「大学野球PRESS」柳川悠二 = 文)
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