三笠宮妃・百合子さま 国内最高齢“目の見えないゾウ”に託された「平和への想い」
ゾウに会えることがどれだけ尊いことか
百合子さまは、1923年(大正12年)、旧河内丹南藩主家の高木正得子爵の次女として生まれた。母は入江為守子爵の次女の邦子さん。昭和天皇に仕えた入江相政侍従長の姉だった。 百合子さまが、昭和天皇の末弟で、7歳年長の三笠宮さまと出会われたのは17歳のとき。学習院女学校のご卒業と同時にご婚約が決まった。 小田部さんが続ける。 「戦前の宮さま方は、幼少のころから家族と離れて、それぞれ独立した個人として日常の暮らしをなさるのが習わし。 周囲は大人の側近ばかりで、同年代の友人もあまりつくれないさびしい環境。 そうしたなか結婚によって生涯の伴侶ができることは、宮さま方にとってはじめての家族ともいえる豊かで温和な存在との人生のはじまりを意味しました」 三笠宮ご夫妻の結婚祝いの晩餐会が行われたのは真珠湾攻撃の前日。百合子さまの結婚と子育ては、戦時下で始まった。 「新婚生活は、戦前、当時の皇族のならいのとおり陸軍の軍人となられた宮さまの職務が優先され、不在の日々も。ときに中国・南京に赴任されるなど三笠宮さまも生死に関わる環境に置かれ、百合子さまは伴侶としてその心配をされながらも、それを口に出せない生活を重ねられていたようです」(小田部さん、以下同) 終戦末期には、B29の空襲で赤坂御用地にあった三笠宮邸が焼失。百合子さまは防空壕で過ごされたこともあった。 お二人は、寬仁親王、宜仁親王(桂宮)、憲仁親王(高円宮)、甯子さん(近衞忠煇夫人)、容子さん(千政之夫人)と5人のお子様に恵まれた。 百合子さまは、子育ての悩みや三笠宮さまの何げないお言葉に、心を痛められたことを育児日誌に綴られていた。 〈授乳は赤ちゃんにとって絶対的のもの重大なものと一生懸命しているが、(中略)周囲の理解あってこそ十分なことが出来るのだ。(中略)誰も助けてくれないので、すべての事に亙って自分から思いつき、しなくてはならない。心身供に疲れたという感じ〉(『高円宮憲仁親王』より) 戦後、三笠宮さまは、皇族の身でありながら、古代オリエント史の研究家として活躍。多忙な日々を過ごされていた。 「百合子さまは、戦後、研究者の道に進まれた宮さまの勉学の支援、たとえば、多忙な宮さまのためにノートの清書をされていたことはよく知られています。 またフォークダンスなどの社会活動をされたときにも、ご一緒に踊られるなど、宮さまの活動のよき理解者であり支援者でもありました。 宮さまは、中東などへの現地視察も数多くこなされてきました。そうした海外での視察研究にも百合子さまは同行し、写真撮影など支援もされてきました」 身をもって戦争の悲惨さや不条理を知った三笠宮さまは、戦後、先の大戦の反省を常に口にされていた。