ちょっと怖い魔界・京都 「平安京」の名前に込められた本当の意味とは?
かつて日本の都として栄えた京都。日本の成り立ちを学ぶうえで重要視される京都は、今も昔も学生の修学旅行や訪日外国人の観光には欠かせない存在となっています。 しかし、これから案内する「魔界・京都」にはきらびやかな金閣寺も侘び寂びの佇まいのある銀閣寺も登場しません。暑い夏こそ覗き見してみたいちょっぴり怖くてミステリアスな京都を経済コラムニストでありながら、独特な目線で京都の研究を続けている大江英樹さんが案内します。
「平城京」と「平安京」の間に存在した、幻の都「長岡京」
京都はかつて千年以上も続いた日本の都、平安京でした。では平安京の前の都はどこかご存じですか? 多くの方は奈良にあった「平城京」と答えるかもしれませんが、実は違います。現在の京都市から南西の方角に行った現在の向日市、長岡京市、京都市右京区にまたがる地域に「長岡京」と言われる都がありました。 平安京ができたのは794年、日本史を勉強するときに「鳴くよ(794)鶯(うぐいす) 平安京」と覚えた方も多いと思います。ところが長岡京ができたのは784年です。ということは平城京から遷都してわずか10年で都を移さざるを得なかったのです。ではなぜそんな短い期間で遷都がおこなわれたのか? そこに魔界・京都のエピソードが隠されています。
平城京から長岡京への遷都の理由とは?
そもそもなぜ平城京から長岡京に都を移したのでしょう? 当時の桓武(かんむ)天皇には3つの意図がありました。まず平城京の地理的な弱点であった水利を克服し、物流を整備することで経済の充実を図りたかったということです。長岡京の周りには桂川や宇治川などが合流した大きな川である淀川がありました。古代において物資の輸送に水利の果たした役割は大きかったからです。 2つ目の理由は南都の宗教勢力から一定の距離を置きたかったということがあります。のちに比叡山が巨大な宗教勢力となるわけですが、この時代は南都六宗と言われる奈良の古代仏教の力はかなり大きなものでした。為政者であった桓武天皇がこれらの影響力を排除したいと考えたのは当然です。 さらに当時の富裕な商人であり、朝廷の財政にも大きく関わっていた、いわば桓武天皇のサポーターであった渡来人の秦氏の本拠地が桂川周辺であったということも大きな理由でしょう。