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村上春樹「騎士団長殺し 」、発見のための回り道の旅 英紙ガーディアン書評

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The Guardian

【記者:Xan Brooks】  何かを書こうとしても、真っ白なコンピューター画面の前で何時間も書き出せずにいる人間、あるいは締め切りという暗礁に乗り上げて動けなくなってしまう人間ならば、着々と仕事を進める村上春樹ののどかさに多少のねたみを感じることは許されるだろう。日本を代表する作家である彼は小説を書く時、毎日同じ決まったルーティンにこだわる。  朝は夜明けとともに起床し、午前中に執筆を終え、午後は10キロ走る。今では、物を書くことと走ることは分かちがたいもので、一種の「催眠術」だと彼は言う。それによって、村上春樹という作家は半意識状態で物語を進む媒介となる、あるいは、以前からそこにある上り坂や下り坂を観察しながら走り抜ける旅人となる。おまけにそれは、批判をかわす防火壁ともなる。つまり作品の中で短所とみなされがちな部分、詰めが甘いと思われる箇所や意外な展開でさえも、単に一冊の本の中に自然に存在するパターンとなってしまう。村上は自分でもどこへ向かっているのか完全には分かっていないし、それでいいと信じている。眺めの良いコースを走っていれば、多少の紆余曲折があることなど織り込み済みなのだ。  英訳版が発刊された「騎士団長殺し(Killing Commendatore)」はまさしく走るべきコースを外れながらも、その過程で物語の筋を取り戻し、最後は一周して帰ってくる男の軌跡を描いている(話の結末は物語の序盤で種明かしされている)。語り手の36歳の肖像画家(名前は出てこない)は破綻した結婚生活から逃れ、自分の感情からも逃避する中で、まるで孤独な1人の侍のように神奈川県・小田原郊外の山中に蟄居(ちっきょ)する。しかし世界は、特に精神世界はなおさらのこと、最初から彼を休ませてくれない。雑木林の中で毎晩鳴る不思議な鈴の音や、厳重に包装され屋根裏部屋にしまい込まれた謎めいた絵画(モーツァルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」にインスピレーションを受け、「騎士団長殺し」と題された絵)。すぐに、遠い土地に引きこもったはずの主人公の毎日は、まるでニューヨークのグランド・セントラル駅のように、あるいは推理ボードゲーム「クルード(Cluedo)」の館のように、忙しくなっていく。彼の目の前には次々と謎めいた、しかし足りないかけらを埋める重要な情報を持つ人々が現れる。  従来の村上の作品だったら、そうした情報の断片は最後にあたかも写真のようなリアリズムをもってピシッとはまっていくはずだ。それこそが、語り手としての村上の作品を生む際のプライドなはずだ。しかし今作はもっと、ふわふわと渦巻く抽象画の絵具のように、キャンバスに滴り落ちていく。  絵を描くことを「線を散歩に連れて行く」ようなものだと言ったのは、パウル・クレー(Paul Klee)だ。村上が自分の作品を同じように眺めていることは間違いないだろう。それは創造性に富んだ散歩であり、読者に対してそうあるのと同じくらい、彼自身にとっても何かを明らかにするものに違いない。進路はジグザグを描き、脱線し、同じところを行き来する。話の見え方は何度も変わり、Uターンさせられているような感じを禁じ得ない。そして「騎士団長殺し」は時に、読み手を安心させるかのように、作家があらかじめ緻密に用意しておいた場所に出くわす。そこに陳列されている精神は、例えば「IQ84」で彼が描いた「リトル・ピープル」(ビッグ・ブラザー=監視社会に対する)にも似ている。あるいは「ねじまき鳥クロニクル(Wind-Up Bird Chronicle)」に最もよく表れている村上作品にお馴染みな、乾いた石室に転がり落ちるような象徴的な転落だ。  いつものように村上は、単調な物事と超自然を折り重ねること、つまり日常のありふれたディテールの中に埋もれる魔法を見出すことが素晴らしく得意だ。しかし今回は特に彼自身、異なる要素が大きく脱線することを良しとしており、それぞれの要素はほとんど関係がないとさえ思えるところから始まる。  そしてまたいつものように、村上と名のない主人公はたくさんの趣味を共有している(黒澤明の映画からブルース・スプリングスティーンのアルバムまで)。彼の不確かささえもが、共有されていると仮定してみよう。すると、彼の14番目の小説である「騎士団長殺し 」が、あたかもデビュー作のように感じられてくる。それは話が進むにつれて大方の形をなしていく、多弁で、脱線の多い、発見の旅だ。森の中へ深く入り込めば入り込むほど、周りの景色はますます不鮮明になっていく。駆け出しの小説家だったらこの時点でパニックに陥り、必死になって出来事に何らかの秩序をもたせようとするだろう。しかし村上は喜んで絶え間ない変化の中に身を置き、自らがたどる回り道にまったく動じることがない。彼の走るペースは楽で、決して急いでいない。彼の繰り出す文章は温かく、会話のようで、静かな奥深さがちりばめられている。彼は付き合って本当に楽しい仲間だ。それこそが私たちが作家に求める最も大切な資質だろう。私たちは彼を完全に信じて委ねることができる。そして楽しみながら道に迷っても、最後は必ず彼が、最初にいた場所へ私たちを帰らせてくれる。 「ガーディアン」とは: 1821年創刊。デーリー・テレグラフ、タイムズなどと並ぶ英国を代表する高級朝刊紙。2014年ピュリツァー賞の公益部門金賞を受賞。

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