裁判官は「事実」をどのようにとらえ、判断しているのか(レビュー)
1 はじめに
本書は、要件事実論・事実認定論の泰斗である伊藤滋夫教授による事実認定論に関する理論研究の集大成というべき研究書・実務書である。 本書の前身は、平成8年に出版された『事実認定の基礎――裁判官の事実判断の構造』(以下「初版」という)である。初版においては、難波孝一弁護士(元東京高裁部総括判事)がその出版の企画に参加された。 この初版に関しては、長らく改訂されない状況が続いており、研究者、実務家等の多くの読者から改訂が待ち望まれていたが(ただし、平成12年に初版の民訴法の条文が平成8年改正法に改められている)、この度、20数年ぶりに改訂版が出版され、伊藤教授による事実認定論に関する最新の研究成果が公表される運びとなった。誠に慶賀すべき出来事であると考える。 さて、伊藤教授は、本書の「改訂版はしがき」(iii頁)で、「「改訂版」において「初版」より(又は「初版」にはなかった)説明を充実した諸問題」と題されて、(1)「相当程度の可能性の存在」、(2)裁判例において用いられる「特段の事情のない(認められない)限り」という表現の正確な理解、(3)経験則の体系化、(4)「間接反証」に対する批判、(5)「推定」という考え方、(6)証明度の6点を、差し当たり挙げておられる(もとより、この6点以外でも、本書において、初版より説明を充実されている項目は多数にのぼる)。 筆者は、現在、東京高裁民事部に勤務しており、改訂版から、その企画に参加している者である。実務家である筆者の視点に照らし、本稿では、伊藤教授が指摘される上記6点のうち、(2)、(3)及び(6)の3点に絞って、適正な事実認定の実践という観点から検討し(後記2ないし4)、最後に(後記5)、適正な事実認定の実践のために本書の持つ有用性について述べてみたい。
2 裁判例において用いられる「特段の事情のない(認められない)限り」という表現の正確な理解について
この点については、本書第4章第1(78頁以下)において、詳しく論じられている。 ここでの「特段の事情」は、要件事実論において、背信行為と認めるに足りない特段の事情といわれるような、評価的要件の例外的事実(評価障害事実)を示すものではなく、間接事実による推認の局面における、推認を妨害する経験則上の例外的事実を示すものである。 最高裁判決から一つ例を挙げる。最判昭44・12・11裁判集民事97号753頁である。この事案は、X(メリヤス卸売りを営む者)が、Y(商店)に対し、取引額に応じて支払われる報奨金を請求したところ、Yは、Xはその長男Aに、挨拶状(乙第一号証)によって、報奨金支払債権を譲渡したなどと主張して、Xの請求を争ったというものである。最高裁は、Xとその長男Aとの間には、挨拶状が出された当時、営業の譲渡がなされたと推認するのに難くないのであり、「さらに他に特段の事情のないかぎり、本件報奨金債権も、このときAに譲渡された……ものと推認するのが相当である」(圏点は評者)と説示した。ここでの問題は、この「特段の事情」につき、常に証明を要するのかという点である(「特段の事情」の証明の要否に関する最高裁の一般的な立場は、必ずしも明らかではない。本書80頁注(12)参照)。これは、本書78頁で指摘されているとおり、いわゆる間接反証理論を採用するかどうかという問題と密接に関連している。この特段の事情を、間接反証事実であると捉え、間接反証事実には、本証が常に必要であるとすれば、この特段の事情も証明を要するという結論になる。しかし、間接反証理論を否定し、この例外的事実(伊藤教授は、反対間接事実と呼ばれる。本書112頁)につき、必ずしも証明を要するとはいえないとすると、「特段の事情がない限り」とか、「特段の事情を認めるに足りる証拠はないから」とかといった表現は、正確性を欠くことになる。伊藤教授が、上記の点をどのように言われるのかというと、間接反証理論に反対する立場に立って、「推認を妨げるに足りる特段の事情が存在する疑いがない限り」と、簡にして要を得た表現を提唱されているのである(本書76頁注(7)、81頁)。このことは、適正な事実認定を実践するという観点からは、実務的に大変有益な指摘であると思われる。実務家としては、自らが間接反証理論を採用するのかどうかという自覚的な態度決定とそのことから生ずる帰結の違いを考慮に入れて事実認定を行い、その事実認定のプロセスを判決文にどのように正確に反映させるのかという点につき、意識すべきであろう。