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NHKスペシャル『驚異の小宇宙 人体』で人生が変わった......元NHK解説委員、中谷日出の3DCG人生

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CGWORLD.jp

今や地上波の番組演出で必要不可欠な存在となった3DCG技術。過去30年にわたり、率先して技術開発と番組への導入を進めてきたのがNHK(日本放送協会)だ。そうした中、教育番組の制作・演出などを通して3DCGの活用を推し進め、退局後も様々な分野で八面六臂の活躍を続けるクリエイターに、中谷日出氏(元NHK解説委員)がいる。そのキャリアをふり返りつつ、放送業界と3DCGの関係性について聞いた。

映画『東京オリンピック』が映像文化の原体験

CGWORLD(以下、CGW):今日はよろしくお願いします。元NHKの解説委員として著名な中谷さんですが、実際には1991年にNHK入局後、『いないいないばあっ!』(1996~)、『デジタル・スタジアム(デジスタ)』(2000~2010)など、様々な番組制作に携わられてきました。その過程で3DCGを用いた番組演出を積極的に活用されていますね。 また、2018年に退局された後も、Web番組『木曜新美術館』のナビゲーターや大学での教授職など、様々な分野でご活躍されています。今日はご自身のキャリアをふり返りつつ、放送業界における黎明期の3DCGと番組制作について、お伺いしていきたいと思います。 中谷日出氏(以下、中谷):はい、よろしくお願いします。 CGW:さっそくで申し訳ないんですが、ずっと気になっていたことがあるんです。「中谷日出」というお名前は、本名なんでしょうか? 中谷:いきなりすごいところからボールが飛んできましたね(笑)。はい、本名ですよ。 CGW:中谷さん世代だと珍しい名前だと思うんですが、どういった意味がこめられているんですか? 中谷:朝、日の出に生まれたんですよ。なので、中谷日出。8月9日の......ただ、それだけです。 CGW:そうなんですね(笑)。長年の謎が解けました。ちなみに、どちらのご出身ですか? 中谷:神奈川県です。伊勢原市という田舎町で育ちました。大山の麓のあたりですね。 CGW:ご両親はどういった方でしたか? 中谷:父は、普通の会社員。母は小学校の教師を経て専業主婦をしていました。 CGW:先生の子どもが先生をされているわけですね。 中谷:考えてみれば不思議ですね。そういえば、何年か前に国語の教科書向けに『アップとルーズで伝える』(光村図書/小4)という文章を書いたんですよ。そうしたら、友人から「うちの子どもが学校の宿題で教科書を音読して、『中谷日出』と言っている」と電話がかかってきたんですね。私としては嬉しくて、それを母に話したら、何故か!? 叱られました! CGW:ええっ? どうしてですか? 中谷:僕は小学校のとき国語がとにかく苦手で、一番成績が悪かったんですよ。それで「あなたはね、国語があんなにできなかったのに、教科書に載るような文章を書いて......私は元教員として、許せない」って。褒められるかと思ったのに、叱られて、びっくりしました。まあ、母も半分冗談でしたけど......(笑)。 CGW:すごいハレーションですね(笑)。ちなみに、小さい頃は何をして遊んでいたんですか? 中谷:絵が好きで、あとは剣道くらいしかやってなかったですね。 CGW:絵を描くのはお好きだったんですか? 中谷:そうですね。ただ、無冠の帝王でした。結果的に芸術系に進むんですが、展覧会などで賞をとった経験は一度もなくて。もしかしたら、上手すぎて審査員の価値観に合わなかったんじゃないかって(笑)、勝手に思っています。 CGW:お母さんから褒められたとかも、ないんですか? 中谷:ないですね。父親が絵がわりと上手だったんですよね。それで、父親に絵を習いました。こんなふうに描けとかね。車で遠出して、そこで絵を描けって言われたこともありました。 CGW:子どもの頃に一番思い出深かったことは何ですか? 中谷:やっぱり東京オリンピックですね。大会もさることながら、市川 崑監督の映画『東京オリンピック』の映像が衝撃的でした。僕だけじゃなくて、当時の子どもたちはみんな、ことあるごとに見させられたんですよ。ハイスピードを駆使した撮影技術が特徴的で、選手がスローモーションが動く様が衝撃的でした。亀倉雄策がポスターでデザインしたような、何ともいえないアングルも印象的でしたね。それが「映像ってすごい」と思った原体験になっています。 中谷:それともうひとつがアニメ『鉄腕アトム』の本放送開始です。この2つは大きかったですね。 CGW:中学生・高校生のころは? 中谷:ふつうに公立の学校に通っていました。その頃から漠然と、デザインする人になりたいと思っていたんですけど、神奈川の郊外というか田舎でしたのでデザインやアートの情報が少なかったんです。でも美大に行けば何とかなるかと......。 CGW:大学院まで東京藝術大学(藝大)で学ばれたわけですが、藝大で一番の思い出はなんですか? 中谷:藝大って学ぶというよりモノを創る場だと思っていました。なので、とにかく自分で創るしかなかったですね。アンディ・ウォーホルが切り拓いたポップアートが人気を集めていたころで、同じようにシルクスクリーンで作品を創っていました。デザインという名のアーティストを目指していましたね。他にヨーゼフ・ボイスの社会彫刻という概念に感動しました。造形というのは、ただモノをつくるだけじゃなくて、社会自体も変えることができるんだって、妙にジャーナリスティックになったりしました。 CGW:上野の東京国立博物館に初めて『モナ・リザ』が来日したのが1974年でしたよね。会期中に150万人以上が入場して、たいへんな話題になりました。中谷さんが学生時代を過ごした1970年代の後半は、今みたいに世界の優れた芸術作品が日本の美術館に頻繁にやってくる時代ではなかったと思うのですが、どういう風なかたちで、そういった作品に触れられていたんですか? 中谷:僕が芸術に対して多感なころ、フルクサスという美術運動がありました。そこでオノ・ヨーコや、ナム・ジュン・パイクといった世界的なアーティストが、日本を舞台に様々な芸術活動を展開していて、アートに対する考え方を揺さぶったんですよね。そうした動きを面白いなと思って見ていました。デザイン的な視点もあったんですが、僕はアートだと思ってみていたんですよ。 そんな中、渋谷パルコでグラフィック展やパロディ展などが始まって。まさにフルクサスという芸術運動の風が、グラフィックというながれにつながっていって。そこから日比野克彦氏や田中紀之氏らが出てきたんですね。たまたま彼らは仲間だったので、一緒にいろいろな活動をしていました。当時は藝大旋風なんて言われたこともありましたね。 僕はその中でも後発隊だったので、その後についていった感じです。当時シルクスクリーンのパイオニアとして知られる岡部徳三さんという方がいて、その方の工房に研究生として通ったりしていましたね。当時は工房が神田にあって、藝大からも近かったんですよ。 CGW:今よりずっとアートに力があったんですね。 中谷:そうですね。特に若い人の表現が活発でした。後々僕がNHKで『デジスタ』を始めたのも、そういう思いがすごくあって。若い人をね。とにかく若い人の力で、新しい風を吹かせたいという思いがあって。そういったムーブメントをすごく大事にしたいという思いがありました。それで、NHKに入局後も、そういうことばかりやってましたね。 CGW:ちなみに大学院の修了制作では、どんなものを手がけられましたか? 中谷:やっぱりシルクスクリーンで、天井からたらっと作品をたらして。現代美術ですね。アートの大衆化というか。複製芸術にすごく興味をもっていました。

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