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「誹謗中傷」と「批判」の違いとは何か? 美術批評の視点から

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美術手帖

放任できない悪質言論  SNS上の誹謗中傷が人の精神を追い詰める、という問題が、リアリティ番組出演者の自殺という出来事をきっかけに社会全体の関心事となっている。これに法がどう対処すべきかについて、様々な視点からの議論が出されているが、これに伴って、「法的に許容されない『誹謗中傷』と、正当な『批判』との線引きをどう考えるか」、を確認・再考する必要が出てきた。この問題は、美術批評・文芸批評の分野にも直接に通じる問題である。  人を死に至らしめるほど精神的に追い詰める発言には刑事罰による規制を、という主張(A)があるいっぽうで、批判と誹謗中傷の間の線引きは難しく、一律に線引きをすることは難しい、という実情から、(刑事罰を含め)言論への法規制は難しい、という意見(B)も聞かれる。  この議論には前提がある。これは攻撃的な言論を野放しにするのか否かという話ではなく、いま、すでに名誉毀損やプライバシー侵害などの裁判理論が確立しているのだが、それを超えて法規制をするべきか、という話である。あらたな法規制を求める議論は、そうした従来型の方策では被害を救済することができないので、裁判という事後的救済ではなく、法規制によって被害を先回りして防止・禁止すべきだと主張していることになる(A)。いっぽう、法規制の新設に慎重姿勢を見せる論者は、従来型の裁判での救済を考え、いまよりもう一段、被害者が裁判を起こしやすくなるようにルール見直しをする方向性を説いている(B)。  総務省も、プロバイダによる発言者情報の開示の要件をいまよりも緩くする方向、つまり(B)の方向で、ルール見直しを検討していた。6月4日には、高市総務大臣からの発表で、要件を緩くする方向ではなく、電話番号情報も開示の対象とすることで対応する、との方針が 明らかにされた。  もっと踏み込むべきではないかとの論評はありうると思うが、一定の悪質な発言については個人の「匿名発言の自由」を後退させることもやむを得ない、という考え方が、従来よりも強まったと言えそうである。ネット上の芸術批評も例外とはならないだろう。ここでは、専門誌に掲載される学術的な芸術批評だけでなく、SNS上で発信される一般人の感想・批評も含むこととする。法律はこのふたつをとくに区別していないからである。そうすると、ネット上の芸術批評は、「あいちトリエンナーレ2019」のあった昨年夏以来、膨大な数に上ることになる。  ここでプロバイダが発信者情報を開示するのは、被害を受けた申請者に対してであって、ネット社会一般に「実名をさらす」と言っているのではない。しかしこれによって被害者が裁判を起こせば、「裁判の公開」の原則(憲法82条)によって、その裁判は傍聴や報道の対象にもなる。自分の発言が法的責任に問われる可能性があるという認識が、悪質言論への抑止となるのであれば、これは法が発揮すべき正常な抑止効果ということになる。  言論を衰退させる「萎縮効果」と、法の役割として正常な「抑止効果」との線引きは、法的責任を問うべき「悪質な言論」のカテゴリーをどう考えるかによって、「悪質言論の抑止」となるか「批判の萎縮」となるかが決まってくる。この線引きを見誤ると、批判の自由が塞がれてしまうことになり、法のルールは萎縮効果となって言論空間にのしかかってくる。上記の解決策(A)と(B)では、強度・影響度は大きく違うけれども、社会的信頼性(レピュテーション・リスク)を重視する良心的な発言者やメディアにとっては、(B)だけで十分に回避しなければならない問題である。だから、(A)(B)どちらの解決策をとったとしても、発言者やメディアにとって、この線引きは見ておかなくてはならない問題なのである。 「批判の自由」が重要な理由  この線引きを考えるにあたっては、前提として、「表現の自由」がなぜ手厚く保護されるのか、また、なぜ「批判の自由」が保護されるのか、見ておく必要がある。  今回、多くの人が法規制を求める声を挙げているのは、それだけ不快な思いをさせられながら我慢してきた人が多かったことを表している。しかし、「誹謗中傷」という、それ自体は法律のなかにない言葉を掲げて、「いままでの法制度では対処できない、新しい法規制が必要だ」と主張することには、言論の自由のうちでとくに大切な「批判の自由」を自ら狭めてしまう危うさがある。  批判の自由は、民主主義を支えるものとして、また、学術・芸術の分野では人類の知的発展のプロセスをなすものとして、その「自由」の重要性が共有されてきた。社会告発的な芸術作品や、既存の価値観や美観に一石を投じる作品、ときに辛辣な批判も含む芸術批評は、切磋琢磨による知的発展のプロセスとして、その「自由」を確保しておくべきものである。こうした言論空間に質の悪いものがあった場合にも、それは受け手が取捨選択し淘汰していくか、それを不本意と感じた当人が対抗言論によって軌道修正していくべきもので、国などの公権力が介入することは極力避けることが求められる。  まずはこれが「表現の自由」の原則である。ただし、次に見るように、名誉毀損や侮辱、プライバシー侵害など、他者の権利を侵害する表現は、事後的に、被害者の申し立てによって損害賠償や差止などの法的措置を受ける。芸術作品や芸術批評も、こうした権利侵害に問われたときには、法的責任を免れない。  それでは、自由が保障されるべき批判と、法的責任が問われる人格権侵害との線引きはどこにあるのだろうか。 現在の裁判理論でできること──人格権訴訟  芸術・学術の内容にかかわる論争や、作品・学説の評価に決着をつけることは、裁判所の仕事ではないので、裁判所に訴えても判断の対象とならない。しかし、法に規定されている権利や、裁判で確立してきた権利が侵害されているとなれば、裁判での解決が可能となる。(大江健三郎『沖縄ノート』事件、大阪高裁平成20年10月31日判決)。  まず、「誹謗中傷」という言葉は、社会的にはなじみのある言葉だが、法律上の言葉ではない。そこで、法律上の言葉にそくして整理してみると、次のようになる。     ネット上の誹謗中傷には刑事罰が必要だ、という主張があるが、名誉毀損、侮辱、信用毀損、業務妨害については、すでに刑事罰がある。親告罪なので、被害者本人が刑事告訴しないと刑事事件とはならないが、「泣き寝入りしない」と決めた被害者が告訴をすれば、刑事罰を課すことはできるのである。   その他の人格権としては、プライバシー権、肖像権、平穏生活権、氏名権(意に反して氏名を公開されない権利)といったものが、裁判で救済の対象となっている。過去の犯罪歴についても、プライバシー権で保護される。これらについては、法的措置をとる場合、民事責任までで刑事罰の対象にはなっていいない。この中でもっとも「誹謗中傷」問題に重なるのが「名誉毀損」と「侮辱」だろう。 名誉毀損と侮辱  相手の社会的信用を貶めるような事実情報を公言することは、名誉毀損にあたる。批評家が自分の価値判断として「この作品は〇〇の作風や視点を模倣しているにすぎず、芸術的価値はない(と思う)」と言った場合、こうした発言は名誉毀損にはならない。しかし「この作品は作家〇〇の作品の盗作、あるいは剽窃だ」という意味で「模倣だ」と言った場合や、「受賞歴を詐称している」、調査・踏査の成果が「捏造である」と言った場合には、名誉毀損となりうる。  ここで気を付けたいことは、公言した事実が真実だったとしても、つまり相手に落ち度があったのだとしても、まずは名誉毀損にあたると判断されることである。そのうえで、公共的な価値をもつ言論については、その内容が真実だった場合に限り、名誉毀損にあたらない。事実無根の不名誉情報を拡散してしまった場合、つまり発言内容が「中傷」にあたる場合には、名誉毀損の成立を免れない。告発的な内容の言論は、ここが争点となることが多い。  判例を見ると、ある人の所蔵している美術作品が贋作であるという論評が、名誉毀損に問われたが、その論評の内容が真実だったために名誉毀損が成立しないとされた事例がある(佐伯祐三贋作事件、東京地裁2002年7月30日判決)(これは民事裁判である)。  では、批評家の価値判断を述べた「論評」は完全に自由なのかというと、そうではない。刑事罰の対象としての名誉毀損の場合には、「事実情報」だけが問題となるのだが、民事裁判の対象となる名誉毀損のほうは、論評も名誉毀損の問題となる。その場合には、その論評が前提としている事実のところを見て、そこが虚偽であれば論評全体が名誉毀損となり、真実なら、その論評の表現が個人攻撃にあたる場合にのみ、名誉毀損となる。したがって、盗作ないし剽窃と思われる作品を告発的に批判した場合、仮にそれが事実だったとしても、非難の言葉が度を越してしまうと名誉毀損か侮辱のどちらかに問われることになる。その種の表現の例としては、「ダニ」「チビ・ブス」「バカ市長」「鬼畜」などの表現が名誉毀損となった例がある。  芸術批評にあてはめると、作品への論評で、批評者の価値判断を批評者の責任において語る場合には、相当に辛辣な表現でも許されるのだが、(1)作品の真贋や、法令違反・学術倫理違反があったことに関する指摘は、十分な根拠を持って発言する必要があり、そうでないと名誉毀損になりうる。また、(2)そうした事実が認められるとしても、作品への批評を超えて作者に対する侮蔑表現となっている時には、名誉毀損または、侮辱が成立する。 生活・内心の平穏への侵害  いま見てきたとおり、「誹謗中傷」と言われる表現のうち、不名誉な事実を世間に向かって言い立てる行為は名誉毀損となるが、むしろ木村花さんの事件で話題になった「気持ち悪い」「吐き気がする」「やめろ・降りろ・消えろ」といった表現(筆者自身も日頃、SNS上でまったく同じ言葉を受けることがあるし、役職などから「お引き取りいただきたい」といった表現を頂戴することもある)は、通常、法的問題にはならない悪態、と言うべきものだろう。「殺す」「放火する」などは脅迫、「死ね」などは自殺教唆にあたる可能性があり、美術への論評にかこつけたとしても法的に許容されない。「あいちトリエンナーレ2019」で問題となった「電凸」にはこうした脅迫的な内容が含まれていた。これらはまっとうな批評家にとって無縁の悪質言論というわけではない。むしろ、上記のような趣旨の批判は、表面的にはもっと洗練された表現を使うにせよ、批評家もやる可能性はあるのではないか。  おそらくここで決め手になるのも、作品の価値にかかわる論評か、個人攻撃か、という区別だろう。「このような駄作は(自分にとっては)気持ちが悪い、吐き気を催す」、「このような作品を出すくらいなら、いったん作家やめて一から出直したら」といった論評は、キツイものではあるが、批判の自由として保護される。が、「このような駄作を出してくる〇〇のような作家はクズだ」「美術界に寄生するダニだ」、といった侮蔑的な人物批評は、名誉毀損にも侮辱にもなりうる。  また、その批判のあり方が、執拗に罵声口調の言葉を浴びせる、SNS上で本人の目に入るようなリツイートを執拗に繰り返す、などのかたちをとっていた場合には、平穏生活権ないし「内心の静謐」を害する人格権侵害となる可能性があるだろう。一般に「ヘイト」と言われる表現のうち、名誉毀損やプライバシー侵害には問いにくい表現で、当人にとっては深刻に傷つくような表現が繰り返されているようなときには、この概念が使えるのではないかと思っている。専門家の美術批評においてこのような表現が行われることは考えにくいが、美術批評に名を借りてこのようなハラスメントを繰り返す言論がある場合には、法的責任を問う道もある、ということを指摘しておきたい。 芸術および芸術批評の公共的価値と責任  芸術作品や芸術批評、学術における批判は、一般に、公共的価値が認められる。また、法的判断を引き受ける裁判所は、作品価値の判断や学説の決着に関する論争の一方に加担するような判断はしない。したがって、一般的に言って、この分野での名誉毀損は成立しにくく、アウトとなるのは上記のような事実無根の表現、極端ないやがらせ表現に限られるし、その線引きは今後も守られるべきである。  これと同時に、批判者は、自分のその批判も再批判に対して開かれたものであることを、論理の必然として受け入れなくてはならない。その批判が法的には許容されても、批評者としての品格に欠けるものであったときには、そういう評価に服することになる。  この、「批判者もまた、批判を受ける存在である」という対等性への覚悟が、この領域における表現者、発言者の社会的責任と言える。しかしいま、SNSの空間は、発言者のそれぞれがその覚悟を共有するような、正常な批判と淘汰が働く場と言えるかどうか。その淘汰を法によって「上から」行うことは、可能な限り、避けるべきことなのだが、この議論は続くことになりそうである。

文=志田陽子(武蔵野美術大学教授)

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