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時間の強制性と、それを反射する作品群。石川卓磨評 第12回恵比寿映像祭「時間を想像する」

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美術手帖

感染する現在――なぜ私たちは時間を想像しなければならないのか  第12回恵比寿映像祭のテーマタイトルである「時間を想像する」とはどのようなことなのかを考えてみると、少なくともまず、世界の常識的な時間や現在を疑うことが前提となる。なぜなら時間は普通に存在しており、それを信じているのであれば、わざわざ時間を想像する必要はないからだ。つまりこのテーマタイトルは、時間や現在の自明性を懐疑し、そこから別の(あるいは真実としての)時間を想像する行為であるといえる。  理論物理学者であるカルロ・ロヴェッリは著書『時間は存在しない』(NHK出版、2019)のなかで、相対性理論などを紹介しながら、ニュートンの絶対時間を否定し、全ての場所で共有できる現在は存在しないことを説明する。さらに、時間とは人間の認識やスケールの条件に即してつくられた秩序にすぎず、宇宙あるいはミクロのレベルのスケールで世界を眺めると、過去から未来の単線的な時間の方向性は存在しないと説明する。  現代物理学における時間や映画内時間をコンセプトの柱にしている今回の映像祭もまた、絶対的な時間ではなく、他の人々と共有できない特殊な時間性がテーマの中心に据えられている。これは単線的で統一的な時間という欺瞞的前提を拒否し、時間について考え始めることなのだとわかる。これは科学的であると同時に、政治的な態度なのだということが、展覧会を通して私が考えていることだ。  今年の恵比寿映像祭は、開催期間がもう少し遅ければ中止となっていたかもしれない。WHOは3月中旬に新型コロナウイルスによる感染状況をパンデミックと表明し、世界各国の政府は感染拡大を抑制するために強い制限を設け始めている。この非常事態において戦争が比喩として用いられ、美術館、博物館、図書館、学校などの公的施設が閉鎖され、オリンピックの延期や中止が検討され、さらには外出禁止令や入国禁止措置を取る国も続出している。いっぽう国民は、合理的な理由が欠落したトイレットペーパーの買い占め、コロナビールの売り上げの急落、銃の購入の増加、そしてアジア人差別などの現象をつくり出している。  ウイルスは肉眼では見えず、どこでどのように感染するか/したかを簡単には確認することができないため、その脅威は物質的レベルと、心理的レベルで増幅していく。この状況を見ると、社会的な影響力を持つ人を意味するインフルエンサー(influencer)と、ウイルスの感染によって人体に影響を与えるインフルエンザ(influenza)という一見無関係に思われるふたつの言葉が、同じ語源であることも示唆的だと思えてくる。各国が非常事態という例外状態を認め、国民がそれに脅威を感じることで、誰もが現在という時間性に従わされる強い同調圧力は、感染拡大を抑制するという疑いようのない正しさに根ざしているとしても、暴力的状況である。  こう書くことで、新型コロナウイルスの感染拡大の危険性を低く見積もりたいわけではない。現在蔓延している高圧的な時間性と、「時間を想像する」という態度は相容れないものであり、その対立について考えてみたい。  よく言われているように、今回のパンデミックによって引き起こされる死や損害は、ウイルスだけが原因になるとは限らない。免疫学的リスクと、政治、経済、社会学的リスクはそれぞれ別種のものであり、複数のリスクのレイヤーをマネジメントしていく必要がある。そのためには、スラヴォイ・ジジェクが分類した「主観的」「客観的」「象徴的」という三つの暴力のモードを、慎重に分析しなければならない。そしてこの分析をするうえで、時間をメタ的に考察し現在を別の視点で捉えることは不可欠となる。  私たちを脅迫し、現在に動員を目論む時間の強制性は、新型コロナウイルスによって始まったことではなく、21世紀の特徴的な状況だ。ゆえにパンデミック以前に終了した恵比寿映像祭を、パンデミック以後の状況と照らし合わせて検討することも強引なことではない。  映像祭では、ウイルスと時間性をテーマとして直接的に扱っていた作家もいる。それがアンナ・リドラーの《モザイク・ウィルス》(2019)だ。彼女は、本作で1630年代に「チューリップ・バブル」というチューリップの球根の先物取引に端を発した世界初のバブル現象をテーマに取り上げている。このバブル現象を引き起こしたのが、チューリップ・モザイク・ウイルスによる感染症である。モザイク・ウイルスが球根に感染することで生まれたチューリップは、爆発的な人気と球根の価格の異常な高騰を生み、金融バブルを引き起こした。ウイルスと資本主義経済が、新しさ=現在性のバブル経済を生んだのである。  リドラーは、この歴史的出来事を現在に接続するため、人工知能を新たなモザイク・ウイルスに見立て、チューリップの変形をシミュレーションして見せている。コンピュータ・ウイルスという言葉があるように、ウイルスという存在において、機械、人間、動植物の境界線は別のものとなる。リドラーは進化における時間性と経済的な時間性が、ともに感染的性格を持っていることを示している。  木村友紀の《MPEG-4 H.264 Reflecting in Sizes》(2019)もまた、感染的な現在性を扱っていたので指摘しておきたい。暗闇の中にLEDフラットモニターが水平に設置され、その上に大小様々な形状のグラスが置かれているインスタレーション作品だ。フラットモニターが水平に置かれることは、TVよりもタブレットというメディアの文脈に近づくことを意味する。グラスはモニターの光・像・色彩に反応し、乱反射し、モニターの映像を現実の三次元空間にまで延長している。本作では鮮やかな色彩を多用し、空間を一つの色彩に染め上げる瞬間が特徴的なものとして成立している。  感染という言葉が、ウイルスだけでなく、思考に対する影響も含み、かつ染めるという比喩が用いられているように、モニターとグラスの効果はイデオロギーの力を想起させる。グラスはモニターの映像に感染する対象であると同時に、空間に感染を広げる触媒としても機能している。この状況は情報化社会のアレゴリーとして捉えることが可能で、光の美しさに魅了されるとともに不気味さを感じさせる。  では、感染的な現在から離脱し、時間を想像することはいかにして可能なのか。その方法のひとつは、ベン・リヴァースの《いま、ついに!》(2019)によって示されていた。本作は、16ミリフィルムによってナマケモノの身体を捉えた40分間に及ぶ映像作品である。映像はナマケモノの運動をリアルタイムで捉えているにもかかわらず、人間が生活するなかで常態化したリズムや速度から外れ、弛緩した時間をつくっている。ナマケモノと人間の認識の差異は、速度だけではない。なぜなら、生活のほとんどを木の上で過ごすナマケモノにとって、枝にぶら下がって逆さまに世界を見ることが通常の視覚になっているからである。この非対称性は、同時に、自分の眼の中にある水晶体がつくる倒立像を意識させもする。  また、《いま、ついに!》の映像におけるモノクロとカラーの関係は、ナマケモノの視覚が、色を認識しない粗いモノクロの世界であることと関係するのではないか。ナマケモノという特異な認識を持った存在と比べて、人間の認識はより客観的であるとはいえない。私たちの認識もまた現実を正確に把握できず、同じ尺度で測ることは不可能だからだ。この《いま、ついに!》という作品を映像祭の展示空間の中心に置くことは、象徴的であり、同期を要求する感染的な現在という暴力に対抗する「時間を想像する」ことの政治的態度表明になっている。  本展ではリヴァースだけでなく、身体を通して時間を捉えなおしている作品が、全体において印象的な位置を占めていた。映像の中のパフォーマーのエクササイズと画面の外にあるカウンターが連動する時里充「見た目カウント」のシリーズや、実時間に対応して、ゴミをアナログ時計として動かしていく映像のマーティン・バースなどはリテラルに時間と身体の関係を示していた。  ただ、時間と身体とは幅広い意味を持つ言葉であるがゆえに、抽象的で普遍的なイメージを想定してはいないだろうか。このテーマを頭に思い浮かべるときに、普遍性というイメージによって、無自覚的に意識から排除している身体や時間、そして歴史がある。今回の映像祭において、その欠落を意識化させる作品が多かった。とくに印象的だったのは、黒人の表象や歴史を作品で取り扱った、スタン・ダグラス、グラダ・キロンバ、ニナ・フィッシャー&マロアン・エル・ザニの映像作品である。ここではすべてを論じる余裕はないので、スタン・ダグラスの《ドッペルゲンガー》(2019)を取り上げたい。その前に近年欧米で研究や動向が注目されている「アフロ・フューチャリズム」というものを説明しよう。  これまでSF映画などのジャンルでは、白人中心の世界設計がなされてきた。SFの世界で黒人が主人公を演じることはいまだに非常に少ない。物語の世界だけでなく、最先端のテクノロジーを扱う未来志向のヴィジュアルアートの領域においても、(たとえ制作者が非白人であっても)白人中心のイメージや願望を前提にして世界やテクノロジーが構築されている傾向がある。これに対し黒人による未来や宇宙、あるいはユートピア思想を持った文明観を内包した文化や表象にフォーカスするのがアフロ・フューチャリズムだ。近年の作品で代表的なものとしてマーベル・スタジオが製作した映画『ブラックパンサー』(ライアン・クーグラー監督、2018)やジャネール・モネイのPVなどがある。  ダグラスの《ドッペルゲンガー》は、アリスという黒人宇宙飛行士が主人公のサスペンスSF映画の設定になっており、アフロ・フューチャリズムに位置付けることのできる作品だ。だが作品の中の美術デザインは、レトロな要素を含むがエスタブリッシュされた洗練がなされており、黒人的な文脈の特殊性は一切示されない。また本作は、裏と表の両サイドから鑑賞されることを前提にした、ふたつの正方形のスクリーンを使って展開する映像作品である。内容は、ふたつの正方形の映像がシームレスに同期したり、分岐したりしながら、断片的で難解な展開を見せる。そして、似たような(部分的には使い回された)カット割りで編集されたふたつの映像のヴァージョンがあり、それらは別々の物語を構築していて、ひとつのまとまりを持った解釈を断念せざるをえない宙づりをつくり出している。  この宙づりの世界は、「量子のもつれ」という物理現象を参照してつくられているが、重要なのはたんに科学的な事象ではないだろう。ここでの主題は、アイデンティティの危機と疎外と呼べるものだ。多数化したアリスが観測という経験に晒されることで影響しあい、さらに複雑化し、アリスのアイデンティティが決定不可能なものとなること自体が描かれている。アリスを黒人女性が演じることの意味は、物語には直接関わってはこない。しかし、彼女の身体は、裸にされ、薬漬けにされ、尋問され、隔離され、観察され、複数化されることで、アイデンティティの危機に容赦なく晒される。その暴力の過程をループで鑑賞するときに、黒人の身体が置かれてきた歴史的社会的な位置を意識しないことはない。ステレオタイプなアフリカの民族的イメージをSFの意匠と折衷し、エキゾチズムと差別的な構造に黒人の存在を落とし込んでしまった『ブラックパンサー』の失敗に対して、《ドッペルゲンガー》はアイデンティティと時間の脱構築として「アフロ・フューチャリズム」を成功させた重要な作品であった。  時間を厳密に考えていくと、私たちが信じている過去、現在、未来という単線的な時間の流れが結局のところ錯覚にすぎないことを相対性理論や量子力学が証明したように、アイデンティティなるものも社会的バイアスや錯覚によってかたちづくられたものであることがわかる。それでもアイデンティティとは、取り除くことのできない仮面として「私」を社会的に位置づけようとする。「時間を想像する」ことはそのような欺瞞的認識に対し抵抗する知性であることを《ドッペルゲンガー》は示しているのではないだろうか。  私たちの生活や未来の安全性が脅かされる状況に立たされるとき、私たちは揺らぎようのない切迫した現在を共有する。ここにおいて、最も排除されやすいのは、特殊な時間、特殊な身体を見つめる思考なのだ。芸術は、新型コロナウイルスによる脅迫的な現在に対して、直接的な反抗を示すことは難しいかもしれない。だが、この排除によって奪われるものの危険性を軽視することはできない。ゆえに私たちは映像祭が終わったいまも、時間を想像する必要がある。何か行動を起こすことではなく、想像する自由を行使すること、それだけでも抵抗になりうるのだ。

文=石川卓磨

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