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零式水偵の任務は「索敵」。フィリピンから佐世保へ。台風にぶつかり、進まない。偵察員が「左に川」。腹を決め、着水した。無事に降りたのは1機だけだった〈証言-語り継ぐ戦争〉

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南日本新聞

 1944年(昭和19)年2月に着任した佐世保海軍航空隊(佐世保空・長崎)で、私は3人乗りの零式水上偵察機(零式水偵)の操縦員になり、1カ月後、フィリピンに派遣されることになった。  赤松さんというラバウル帰りのベテランが「戦地では生半可な腕では生き残れない。鍛えるぞ」と言って、3週間、主に敵に追われた際の退避術をみっちり仕込んでくれた。  零式水偵4機からなる派遣隊の任務は、レイテ島タクロバンを拠点に、米艦隊や輸送船団の動向を探る「索敵」だった。早朝、4機が時計合わせをして同時に基地を出発。放射状に設定された「索敵線」をたどって東に飛び、同時刻に復路の索敵線を引き返して、一定の海域をカバーする。飛行時間は8時間にも及んだ。  ミンダナオ島近くで4発エンジンの飛行艇を発見。「味方の二式飛行艇」と電信員が言うので安心していたら、8丁もの機銃を持つ米軍の飛行艇だ。「当たらんでいいから、機銃をぶっ放せ」。叫ぶや、赤松さん直伝の「横滑り」を駆使して逃げた。気付くのがもう少し遅れていたら、撃墜されていただろう。

 島が多いフィリピンでは、水上機は人員輸送にも重宝された。ミンダナオ島スリガオからルソン島マニラまで陸軍第一〇〇師団長の原田次郎中将を2度運んだことがある。スリガオまで送ると、「ご苦労」と、食事まで用意してくれた。奮発してくれたのだろうが、海軍の食事に比べ味はいまいち。「陸兵は、食べ物に苦労してるんだなあ」と同情した。  派遣隊は1機の喪失もなく、8月初旬に佐世保帰還を命じられた。ところが台湾・東港経由で東シナ海を北上中の8月8日、台風にぶつかった。鹿児島県市来沖で猛烈な風に阻まれ、機体が進まない。水上機基地がある指宿へ引き返したが、基地の船だまりには大きな九七式飛行艇が横倒しになっていて、着水できそうにない。  僚機も散り散りに。空がまだ明るい大隅半島に飛び、後席の偵察員と電信員に「どこか降りられるところはないか」と叫んだ。  偵察員が「左に川」と叫んだ。「やむをえん。降りるぞ」。腹を決め、下流から上流に向かい着水した。思ったよりも川幅が狭かったが、翼をぶつけずにすんだ。近くの集落から人が出てきて、激流に飛び込み、飛行機が流されぬよう固定を手伝ってくれた。

 川は肝属川で、着水場所は今の県道後田富山線宮下橋の上流だった。無事に飛行機を降ろせたのは、4機のうち1機だけ。隊長機は志布志湾で転覆し、2機は搭乗員もろとも行方不明になった。  泊めてくれた家のあるじから「あんたらの運の良さにあやかりたい。今晩生まれた女の子に名前を付けてくれないか」と求められたが、「まだ若造なので」と丁重にお断りした。その娘さんも、元気だったら72歳になる。 ※2016年9月7日付掲載

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