映画後半のアクションは本当に前半とは無関係なのか? 映画『Cloud クラウド』を貫く転売の論理。考察&評価レビュー
「ババ抜き」に似た構造を持つ後半のアクションシーン
実のところ、前半とはまるで関係ないようにも思えた銃撃戦を中心とする映画後半の活劇もまた、転売と同じく「ババ抜き」に似た構造を有している。映画の後半ではまず、吉井=ラーテルへの制裁を企てるサイトに、吉井に直接の恨みがある人間たちに加えて、前半には登場すらしていなかった人物たちが集まってくる。匿名の暴力衝動がネット上で加速度的に拡散していく様は、吉井が見つめるディスプレイ上で次々に商品が売れていく流れとほぼ重なる。 彼らは住所を突き止めるとすぐさま現実世界でも合流し、数多くの武器を携えて吉井の家へと向かう。報復に参加した詳細な理由や人物としての背景がほとんど明かされない一行のなかでも、大半の場面でマスクを被っている三宅(岡山天音)はとりわけ印象深い。もちろん『悪魔のいけにえ』(1974)のレザーフェイスはある程度意識されているはずだが、それ以上にズタ袋を被った彼の姿は、ほとんど映画の前半にダンボールに梱包されて画面上を動き回っていた商品を思わせるからだ。 クライマックスの銃撃戦もまた、転売の論理に貫かれている。報復に参加した男たちと様々な銃器は、いずれも映画前半の健康器具やフィギュアを思わせる唐突さでフレーム内に現れる。それらの商品と同じように、三宅らの吉井への恨み、バラエティ豊かな武器、野外の戦闘で吉井の肩口に落ちかかるいかにも軽そうな偽ブランドバッグのような瓦礫、それらが「本物か偽物か」どうかも関係ない。われわれ観客には、彼らの動機や人となり、あるいは銃器や舞台装置のリアリティについてゆっくり考える余裕は決して与えられない。 最終的に、吉井の実質的な分身である佐野が先導する「活劇の呼吸」は、それまで吉井が提唱し実践してきた転売のリズムと同期する。不意に暴力の連鎖は加速し、銃器は次々に使い捨てられ、襲撃犯たちは、ほとんどハマー映画のドラキュラのようにあっけなく一人ずつ死に、映画から退場していく。『Cloud クラウド』は、「本物か偽物か」を確かめる前に銃器を使い切る=「手放す」ことで、ダンボールのように移動し続ける人物たちを「あっという間に」皆殺しにして=「売って」しまうのだ。 【著者プロフィール:冨塚亮平】 アメリカ文学/文化研究。神奈川大学外国語学部准教授。ユリイカ、キネマ旬報、図書新聞、新潮、精神看護、ジャーロ、フィルカル、三田評論、「ケリー・ライカートの映画たち漂流のアメリカ」プログラムなどに寄稿。近著に共編著『ドライブ・マイ・カー』論』(慶應大学出版会)、共著『アメリカ文学と大統領 文学史と文化史』(南雲堂)、『ダルデンヌ兄弟 社会をまなざす映画作家』(neoneo 編集室)。
冨塚亮平