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【ヒロシマの空白】「あまりにふびん」 生まれた当日に焼かれたわが子 名なき命

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中国新聞デジタル

 1945年8月6日、米軍の爆撃機が人類史上初めて、都市に原爆を投下した。「約14万人」は、早い時期の広島原爆の犠牲者数とされるが推計値にすぎず、「±1万人の誤差がある」とも言われる。街全体が壊滅し、死者の把握もままならなかった。一人一人の犠牲者、焼け落ちた街並み、断ち切られた日常…。歴史に埋もれた「ヒロシマの空白」と、75年後の今、向き合いたい。 【画像】広島の原爆犠牲者数  やり場のない悲しみを込めて、名前の分からない、あるいは名前のない犠牲者を墓石に刻んだ人たちがいる。親とはぐれた男児は、収容先でわが子のようにかわいがられたが、数日後に親の名を叫びながら息絶えた。生後数時間で被爆した女児は、名付けもされないまま弔われた。

■親とはぐれ、泣きながら逝った「ススム」

 広島市の北東の山間にある安芸高田市吉田町。三木チズエさん(91)が小さな墓を守っている。「戦災孤児 俗名 進」。義父の四平さんが生前、自宅そばの三木家の墓地に建てた。  「進」さんは、広島に原爆が投下された翌日、トラックで運ばれてきた。広島は医療体制も含めて都市機能が壊滅したため、市外の各所に臨時救護所が設けられ、負傷者がトラックや列車で押し寄せるように運び込まれていた。  男児は親とはぐれたようで、名前は分からない。額や胸に傷を負っていたものの、元気だった。負傷者の救護活動に当たっていた四平さんにすぐなつき、ついて歩いた。

 幼子をふびんに思った四平さんは、許可を得て男児を家に連れ帰った。おいしそうにご飯を食べ、刀を提げた軍人が描かれた絵本を「お父ちゃん」と指さした。馬を見て「ススムもほしい!」と喜ぶ声を聞き、名前を仮に「進」とした。  四平さんに背負われ、毎日救護所で傷の手当てを受けた。しかし15日に容体が急変する。原爆放射線が小さな体をむしばんでいたのか。「お父ちゃん」「お母ちゃん」と泣き叫びながら、息を引き取った。  四平さんは墓に「進」の名を記し、数日間だけわが子のように慈しんだ幼子の遺骨を埋めた。幾度となく、男児の遺族を捜し出そうと広島市内に出向いた。70年に亡くなるまで、「かわいい子じゃったと、ことあるごとにこぼしとった」とチズエさんは振り返る。  「遺骨を里帰りさせてあげたい」(73年7月28日付中国新聞)―。チズエさんの思いが本紙などで報じられると、四平さんが亡くなって5年後の75年夏に神戸市の元軍人が名乗り出た。3歳で行方不明になったわが子、藤田奬(すすむ)さんだと。原爆で妻も失ったという。  遺骨を引き渡す際、「進」さんの墓に骨を一部残してもらった。チズエさんは今も毎朝、墓前に手を合わせている。胸にあるのは、戦争の犠牲になったすべての「家族の元に帰れん子どもたち」の無念である。

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