尾張藩の威信示す「尾張藩御浜御殿の門」 愛知県春日井市に
その門は存在感たっぷりにたたずんでいた。 愛知県春日井市柏原町の市立中央公民館前にある「尾張藩御浜御殿の門」。立て看板の説明では「御浜御殿は、熱田神戸町内田橋付近にあり、(中略)その目的は、藩に縁のある大名や公家たちの休憩その他の用にあてた」とされる。 名古屋市熱田区には江戸時代、二つの御殿が存在していた。名古屋城南の防衛線の 砦とりで として築いたとされ、東西に「東浜御殿」と「西浜御殿」があり、あわせて尾張藩御浜御殿と呼ばれた。このうち「西浜御殿」の門が春日井市に残る門だ。 おしえて名古屋城
名古屋城調査研究センター副所長補佐の原史彦さん(57)の調べによると、1617~18年(元和3~4年)頃に築かれた東浜御殿は、四隅に 櫓があり、防衛拠点としての造りがみられた。 約1万1000平方メートルの敷地内には玄関、寝室のほか、対面儀式や料理を行う部屋、能や 鷹匠に関する部屋があり、居住空間でなく、将軍接待用の施設空間が形成されていた。 その後、徳川政権が安定し、乱世が遠ざかったことで、将軍家専用の旅館となり、3代将軍・家光が1634年8月8~9日に 上洛の帰途に宿泊したことが確認されている。ただ、将軍家の上洛が事実上なくなったこともあり、将軍の使用はこの時が最後となった。 当時、東京・市ヶ谷にあった尾張徳川家の上屋敷の再建に広間や台所が移設されており、原さんは「名古屋城本丸御殿と格や造りなどが同じで、当時は本丸御殿クラスの豪華な御殿が名古屋に二つあった」と説明する。
対する西浜御殿。堀川の開削でも知られる戦国武将・福島正則の「関ヶ原の戦い」(1600年)前に造られた別邸を江戸時代前期に移設したとの伝承記録が残されている。 約4400平方メートルの敷地内に東浜御殿と同様の部屋が配置され、東海道を行き来する幕府・朝廷の使者の休憩所や、尾張藩主が熱田神宮を参詣する際の装束屋敷として使われていたという。
二つの御殿は廃藩置県とともに役割を終え、現在は公園や宅地となり、その痕跡は見当たらない。建物で唯一現存する遺構が冒頭の西浜御殿の門だ。 払い下げを受けて、春日井市の地域の有力者が表門として使用していたものを同市が譲り受けて1977年に移築、補強したという。「尾張藩の威信を示す施設として存在した」(原さん)御浜御殿が確かにあった証左である。