豊臣秀吉の朝鮮出兵の真の目的は「東アジア全域の流通掌握」 無謀な挑戦によって得られた利益は、全体の損失に比べてあまりに小さかった【投資の日本史】
織田信長の後を継ぎ、戦国乱世に終止符を打ったかに見えた豊臣秀吉の「天下統一」。晩年にそれをひっくり返したのは、日本一国に満足しなかった「秀吉の野望」だった。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第11回は、豊臣政権の滅亡を招いたと言える「朝鮮出兵」の失敗について考察する。 【関連年表】豊臣秀吉の「天下統一」と「朝鮮出兵」への道のり
織田信長の「天下統一事業」は、近畿から中部・東海地方の流通拠点を掌握しがてら、重商主義的な政策を展開したことに大きな特徴があった。農民からの取り立てには限りがあるとして、商業分野に大いなる可能性を見出したのである。 信長の後継者争いに勝利した豊臣秀吉は、信長の路線を引き継ぎ、天下統一を果たしたことで、西日本の流通拠点をも掌握することになった。この秀吉の経済政策について、戦国時代史を専門とする小和田哲男(静岡大学名誉教授)は著書『NHKさかのぼり日本史(7)戦国 富を制する者が天下を制す』(NHK出版)の中で、「物流を支配することで、全国の富を自分に集中させるシステムを構築」したと解説する。 伏見とは別に大坂に居城を築いたのは、そこが〈東日本と西日本の中間に位置し、北陸や南海地方への分岐点〉で、〈中世以来、西日本の大動脈として機能してきた瀬戸内海舟運の起点でもあり、終点でもあり〉、〈全国の物流ネットワークのヘソとして〉最適の地だったからと言うのである。 また秀吉は、海賊行為の常習者である瀬戸内水軍に対して、豊臣政権に服属するか、いずれかの大名の支配下に入ることを命じているが、小和田前掲書はこの措置に関して、〈戦国乱世がいよいよ収束に近づいたため、水軍の力を経済発展のためだけに抑え込もうとした秀吉の意図が見えます〉とも指摘している。 秀吉による乱世の後始末と言えば、検地や刀狩り、身分の固定化などが知られる。なかでも農民と僧侶を対象にしていた刀狩りは、民間の武装解除というより、「兵とそれ以外」を明確に分けることに重きが置かれたと考えられる。 乱世が鎮まり、天下統一が達成されたのであれば、兵に休養を与えるべきと思いたくなるが、秀吉はその必要を認めなかった。信長以来の「重商主義」の観点から、兵の次なる使い道について構想を練っていたのだ。中国大陸に君臨する「明帝国の征服」がそれである。