東海大学付属諏訪を率いる熱血コーチの入野貴幸(前編)「選手の心に火をつけるのが大事」
「東海大三高の歴史の傷を作ってきたみたいな(笑)」
取材=古後登志夫 構成=鈴木健一郎 写真=東海大学付属諏訪 東海大学付属諏訪は今年で7年連続21回目のウインターカップ出場となる。昨年大会は黒川虎徹を擁するチームで躍進が期待されたが、明成に敗れて悔しい2回戦敗退。巻き返しを図る今年は、新型コロナウイルスの影響で活動が制限された。9月21日の県予選決勝でウインターカップ出場を早々に決めたが、準備不足もあって満足のいくパフォーマンスが見せられたわけではない。熱血漢の入野貴幸コーチにとっては、悔しい負けも低調なプレーもすべてが次の挑戦へのエネルギーとなる。「本番に間に合うようにチームを作っていく」と語る言葉には、強い力が込められていた。 ──入野コーチは神奈川の出身ですが、長野の東海大学付属諏訪のOBです。指導者になるまでの経緯を教えてください。 出身は神奈川の伊勢原市です。選手としてはそんなに有名でもないし実績もありませんでした。当時はJリーグが始まったばかりの頃で、私もそれに影響されて小6の時はサッカーとバスケの両方をやっていたし、横浜F・マリノスの年間シートを持っていました。バスケに絞ったのは県選抜に選ばれたからですね。ただ、ミニバスの県選抜には残りましたがオールスターには落ちています。 父親が「やりたいことをやるなら、やるべきこともやれ」とだけ言う人だったので、練習で手を抜くことはなかったし、勉強も同じようにやっていました。生来の負けず嫌いなので、例えばドッジボールをしていて最後にぶつけられた子がボールを片付けるルールがあっても、絶対にぶつけ返さないと終わらない。掃除をするにしても「あっちより絶対にこっちの方がきれいにしてやる」という感じで、全力でやるという根本には負けず嫌いがありました。生徒会をやったりしましたが、ヤンチャなタイプでもありました。 東海大諏訪に進んだのは、長野県茅野市と伊勢原市が姉妹都市で、先輩が何人か進学していたことがきっかけでした。神奈川の高校からも誘っていただいたのですが、当時の神奈川県は群雄割拠で先が分からなかったことがあり、インターハイに出たい気持ちで当時の東海大三高を選んで家を飛び出しました。 ──なるほど。高校時代の実績はいかがですか? 1年生の時に、ウインターカップ県予選の準決勝で、自分のパスミスで負けてしまいました。先輩に呼び出されて部屋でずっとビデオを見せられましたね。ただ、それまでは「やるべきことをやって負けたら仕方ないな」程度に考えていたんですが、自分のミスで先輩を引退させてしまった後悔から、やりきっていない自分を見付けて、そこからまた一生懸命やるようになりました。 自分の代ではキャプテンをやっていたんですが、インターハイ予選の準決勝で無名の公立校にダブルオーバータイムの末に負けました。だから結構、東海大三高の歴史の傷を作ってきたみたいなところがあるんですよ(笑)。それでも神奈川からやって来て生意気な年頃だったこともあり、「長野のレベルは低い」と思っていたところも正直ありました。そこから自分がコーチとしてその状況を変えたいという気持ちが次第に生まれました。 ──それで東海大に進んだわけですね。 最初は大学までバスケを続けるつもりはなかったんです。しかし、進学を控えた夏に恩師から「全日本でキャプテンだった陸川章が来るから、東海大でバスケを続けた方がいいぞ」と聞かされて、やろうと決めました。陸さんがいなかったら大学でバスケは続けてないです。だから陸さんによって僕の人生は180度変わりましたね。