「レコード大賞」が国民的行事でなくなった「2つの理由」と「復活の秘策」
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レコ大最高の年は…?
「日本レコード大賞」(レコ大)が国民的行事だった時代がありました。今は昔、という感じです。 果たして、昨年のレコ大受賞曲を思い出させる人は、一体どのくらいいるのでしょう。 正解は、昨年(23年)がMrs. GREEN APPLE『ケセラセラ』で、22年がSEKAI NO OWARI『Habit』。正直、M-1グランプリよりも正答率は低いでしょう(23年:令和ロマン、22年:ウエストランド)。 そんなレコ大に「黄金時代」があったとすれば、1971年の尾崎紀世彦『また逢う日まで』から、1986年の中森明菜『DESIRE -情熱-』までの16年間だと考えます。 いわゆる「歌謡曲」「歌番組」の全盛時代。歌謡曲がお茶の間の注目を一身に浴びる国民的文化だった頃。 その中でも「レコ大最高の年」を挙げよと言われると、私は1972年の第14回を推します。オイルショックの前年、高度経済成長がピークを迎えた年に、レコ大もピークを迎えたのです。 この回の録画映像は何度も見ました。レコ大候補としての「歌唱賞」に選ばれたのは5人。小柳ルミ子『瀬戸の花嫁』、五木ひろし『夜汽車の女』、和田アキ子『あの鐘を鳴らすのはあなた』、ちあきなおみ『喝采』、沢田研二『許されない愛』。 楽曲の認知度は今でもかなり高いはず(『夜汽車の女』以外)。そして5人とも、歌がべらぼうに上手い。身体全体を使って絶唱する沢田研二(当時24歳)が、物足りなく思えてしまうほど。
ミスチルの「不参加」
そんな中、帝国劇場に響き渡る和田アキ子のボーカル&シャウトを最優秀歌唱賞に押しのけて、ちあきなおみが堂々とレコ大に輝くという、まぁ圧巻の120分です。 あと私は、この時期の「編曲賞」を愛する者です。特に、1980年:沢田研二『TOKIO』(編曲:後藤次利)→1981年:寺尾聰『ルビーの指環』→1982年:中島みゆき『悪女』他(船山基紀)→1983年:松田聖子『SWEET MEMORIES』(大村雅朗)という並びは、編曲界の新しい流れを正確に察知した見事な選定。 ではなぜレコ大が国民的行事の座から転げ落ちたのか。 1994年、『innocent world』でレコ大を受賞したMr.Childrenが会場に不参加、賞としてのステータスの低下があらわとなったあの回から、ちょうど30年となる今、考えてみることも無意味ではないでしょう。 第一の理由は、言うまでもなく「日本人の音楽嗜好の細分化」です。ある1曲をもって、その年を代表させることが困難な時代になったからです。 しかし私は、そんなのは結果ではなく前提だと思うのです。「1曲をもってその年を代表させる」のが難しいことなんて、みんな分かっている。でも、そんな中でも、広い視線と深い見識を投入して、音楽ファンに「さすが!」「なるほど!」と言わせる1曲を選ぶのが、レコ大の役割ではないでしょうか。 少なくとも1990~1992年、音楽嗜好の細分化に対応しようと、レコ大を「ポップス・ロック部門」と「演歌部門」に分けたのは、完全な悪手だったと思うのです。