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徳川家康も重要視した、西国の“要衝”「篠山城」 丹波篠山を巡る(1)

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ラジトピ ラジオ関西トピックス

 明智光秀ゆかりの地として注目される兵庫・丹波について、歴史をはじめ多面的に取り上げる『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』(ラジオ関西)。今回から丹波篠山シリーズを6回に渡ってお送りします。7月30日放送回では、篠山城をピックアップ。番組パーソナリティーである「兵庫・神戸のヒストリアン」として活躍する田辺眞人・園田学園女子大学名誉教授が解説します。構成は同じくパーソナリティーを務める久保直子さんです。 ■篠山城  篠山の盆地には、京都から日本海側へ出て西に行く山陰道が通っています。篠山のお城あたりから北西に進んで、丹波国から但馬へ入り、日本海側を進むわけです。そのため、山陰の大きな関門、いわゆる“要衝”の場所が、この地であるといえます。江戸幕府もここを重要視して、八上から篠山盆地にお城を移してきました。天下普請(てんかぶしん)といって、西国の大名たちに労力を提供させ大規模な土木工事によりお城を作り、譜代や親藩といった幕府が信頼できる大名を置きました。  篠山城がちょっとユニークなのは大手門。北向きにお城から外へ出て行けるんです。東門と南門の合計3か所の入口があり、3か所すべてに“コの字型”で門を覆うような堀(塀)があったんです。これが『馬出』です。敵が攻めてきたときに門のところに一団で攻めて来られたら大きな圧力がかかりますが、馬出があるために両方に分散しなければ入って来られません。一方、守り手側は自由なため、有利に働きます。すぐれた築城技術の賜物です。南と東(一部分)の馬出が現存しています。全国のお城の遺構の中でも珍しいものです。中央部に本丸(天守丸)があり、その南東に天守台が作ってあり、本丸の他の四隅には2階建ての櫓が立っていました。ただし天守閣は建てらずじまいでした。  篠山城は1607年に計画されて1608年に作られていきました。関ヶ原の戦い(1600年)と大坂冬の陣(1614年)・大坂夏の陣(1615年)のちょうど真ん中の時期です。まだ西国には豊臣秀吉に恩義を感じている大名がたくさんいました。こういった大名ににらみをきかせ、さらには京都の町を守るということもあったでしょう。徳川家康は、自分の息子を藩主にして松平家をここに置きます。そして、娘婿の池田輝政を姫路城に据えて、今でいう工事総監督を命じます。現地監督として城づくりの名人でもある藤堂高虎にお城の設計、縄張りを任せました。15か国の大名20人に労力や費用を提出させる、天下普請という格好で、この篠山城が作られました。家康にとっても天下を治める最後の総仕上げの準備だったのでしょう。それだけ篠山は重要視されていたということですね。  明治になってから封建時代の名残ということで、お城は各地で破却されましたが、篠山城の場合はお城の砦みたいな建物は残っていませんが、本丸にあった御殿、大書院は残りました。1944(昭和19)年の火事で焼失しましたが、2000(平成12)年に再建されています。 ■刻印石  この篠山城をまわるときの楽しみのひとつが、石垣です。石垣の積み方も大事ですが、大きな石に彫刻したような印があります。この印が付いている石を、『刻印石(こくいんせき)』といいます。丸いのもあれば、四角いものもあります。各地のお城で石垣に刻みこまれた印、『刻印』を見ていくのも面白いですね。 ■御徒町  お城の西側にある御徒町(おかちまち)。侍の中には戦場で馬に乗って走り回る騎馬武者と馬に乗ることを認められていない徒士(かち)という侍がいました。そういった侍が住んでた場所が御徒町です。「御徒町武家屋敷群」はきれいに手が加えられた武家屋敷がずっと並んでいます。お城の西側の外堀のもうひと回り外側に一列に並んでいます。藩主の警護をした徒士(歩兵)の侍たちの館が古い街並みとして残っています。

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