米国大統領の「トランプ」と恐怖政治に走った「ロベスピエール」…2人のポピュリストの「意外な共通点」と「決定的な相違点」
■《美徳》なき時代のゆくえ
戦後日本のロベスピエール研究に先鞭をつけたのは、ナポレオン研究でも知られる歴史家井上幸治の『ロベスピエール――ルソーの血ぬられた手 (歴史の人間像) 』(誠文堂新光社、1962年)である(再版された際に『ロベスピエールとフランス革命』(1981年)とタイトルを変更)。 同書では、タイトルにあるように、ロベスピエールが「ルソーの血ぬられた手」と表されている。ただ、これは井上のオリジナルではない。「まえがき」(初版)によれば、それはドイツの詩人ハインリヒ・ハイネ(1797-1856年)の表現だという。 《フランス革命のさなかでも、そののちの時期でも、ロベスピエールを「吸血鬼」、「虎」と呼んだし、ハイネのような自由主義の詩人でも、彼の名を革命テロルと直接結びつけていたのであろう、「ルソーの血ぬられた手」と詠んでいる。》 ここに出典は明記されていないが、ハイネは実際そう言っているのだろうか。『ドイツの宗教と哲学との歴史のために』(1834年刊。岩波文庫のタイトルは『ドイツ古典哲学の本質』1951年)をひもとくと、ロベスピエールはルソーの思想を「時代の母体からひっぱりだした血まみれの助産婦」だと書かれている。続けて、「血みどろの両手」という表現も出てくる。 《サン・トノレ町に住んでいた偉大な俗物マキシミリアン・ロベスピエールは王政を倒すとなれば、もちろん、例の「破壊的」狂犬病の発作におそわれ、つづいて「国王首切り」の癲癇をおこして、ものすごくひきつけたものだ。けれどもお寺参り〔最高存在の祭典〕をするとなると、すぐさま癲癇の白い泡を口からふきとり、血みどろの両手をあらってから、ぴかぴかひかるボタンのついた青色の晴れ着をきて、おまけに幅広の胸着に花束をさして出かけたのである(伊東勉訳。表記を一部変更)。》 この引用では、ロベスピエールの「吸血鬼」のような残忍性があらゆる表現を使って強調されている。井上自身、旧制中学の歴史の教科書か参考書でロベスピエールのことが「性、残忍酷薄にして」と書かれてあったというエピソードを紹介しているが、その種のイメージは今日も日本国内ではさほど変わっていないだろう(井上も触れているように、フランスではその時すでに「ロベスピエール復権」の兆しがあり、今も再評価が進む。「暴君」や「怪物」というイメージが彼の失脚前後にいかに作られたかを論じた研究が最近翻訳された。ジャン=クレマン・マルタン『ロベスピエール――創られた怪物』田中正人訳、法政大学出版局、2024年)。 もっとも、負のイメージが誇張されているとはいえ、ロベスピエールには残忍な面があり、その面が強調される歴史的理由は十分にある。狂気(=恐怖政治)へと至るフランス革命において、彼が枢要な役割を果たしたのは事実である。しかし、ルソー思想の実践者として残忍さばかりが刮目されるあまり、彼がただルソーの「思想の助産婦」だったのではなく、その実践者として苦悩しながら師とは異なる民主主義を構想し、信じたことが見落とされてはならない。 拙著『ロベスピエール 民主主義を信じた「独裁者」』で描かれるように、ロベスピエール自身、ルソーの神話的な立法者像の影響を受け、おそらくそれに憧れた面があるにせよ、彼にとって立法者はあくまで目の前にいる「代表者」だった。それは彼がルソーとは違い、現実の政治家だったことと無縁ではない。伝説的な指導者、あるいは理想的な人民(民衆)に政治を委ねるのではなく、しばしば無知な人民(民衆)を導く現実の政治家と議会の責任の重さをロベスピエールは主張した。この点は、トランプ氏が再選されたこの時期に改めて注目されていい。革命指導者が求めたような責任は重すぎるとはいえ、政治家に《美徳》をまったく期待できなければ、代表制(=議会制民主主義)の存続は危ういと考えられるからだ。 加えて、民主主義には「人民」の一体性が必要とされる、ロベスピエールはそう主張した。そこで彼が考案したのが、「最高存在の祭典」だった。そこにも、ルソーの「市民宗教」の影響を見るのは容易い。しかし、ロベスピエールは単なる理論家ではなく実践家として、その宗教の祭典を主宰し、「独裁者」という批判を浴びながらも、各宗教の自由を認めながら国家を超える価値を基調とした信仰と、それに基づく国民の一体性を求めた。 では、トランプ氏が「アメリカを再び偉大に」と言うとき、一体性の回復は目指されているだろうか。ロベスピエールの視点からすれば、民主国家に求められるのは社会の分断を超えた一体性である。だが、メディアを通じて聞こえてくるのはアメリカ社会の分断を煽る言動ばかりである。 他方、今日のアメリカで一体性を回復する手段がないわけではない。それはフランシス・フクヤマによれば、合衆国憲法の理念の保守であり、建国の記憶の想起であるという(この点については、『IDENTITY――尊厳の欲求と憤りの政治』山田文訳、 朝日新聞出版、2019年を参照)。ただその場合、たとえば独立革命については伝統的な理解ではなく、多様なアクターに目配せしたような今日的な理解に基づく「一体性」が必要となるだろう(そのような革命の理解についてはさしあたり、上村剛『アメリカ革命――独立戦争から憲法制定、民主主義の拡大まで』中公新書、2024年を参照)。国民の「一体性」とは、アイデンティティの「同一性」ではないのだから。 いまや問題はトランプのアメリカではない。トランプ後のアメリカで、そのような一体性が保たれるか、言いかえればポストトランプの世界を見据えて一体性の回復に向けた取り組みが今できるかどうかだろう。それが、フランス革命の友敵の論理が至った狂気に陥らないためには必要である。少なくともアメリカ有権者の多数の不満をトランプ氏が受け止め、支持されたという事実を反対者も受け入れることから始めなければならない。彼を非難するばかりで、彼を支持した人々の意思に目を向けなければ、「一体性」を前提とした民主主義の未来は暗い。 高山裕二(たかやま・ゆうじ) 1979年、岐阜県生まれ。明治大学政治経済学部准教授。2009年、早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。博士(政治学)。専門は政治学・政治思想史。主な著作に『トクヴィルの憂鬱 フランス・ロマン主義と〈世代〉の誕生』(白水社、サントリー学芸賞受賞)、『憲法からよむ政治思想史(新版)』(有斐閣)、共著に『社会統合と宗教的なもの 十九世紀フランスの経験』、『共和国か宗教か、それとも 十九世紀フランスの光と闇』『フランス知と戦後日本 対比思想史の試み』(いずれも白水社)。 高山裕二(政治学者、明治大学准教授) 協力:新潮社 新潮社 考える人 Book Bang編集部 新潮社
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