米国大統領の「トランプ」と恐怖政治に走った「ロベスピエール」…2人のポピュリストの「意外な共通点」と「決定的な相違点」
■元祖〈ポピュリスト〉の矜持
青年時代、ロベスピエールは古代ローマの歴史から善悪二元論的なレトリックを学び、また田舎に戻って弁護士業をする中で友敵の論理を鍛えあげた。人民の〈友と敵〉という対立の構図を作り、敵を糾弾する様子は、まさに現代の「ポピュリスト」のそれである。 しかも、バスティーユ監獄襲撃から始まるフランス革命の過程でロベスピエールは何度か民衆の「蜂起」を正当化した。1793年5月、ブリソ派(ジロンド派)が民衆に人気があったマラを不当に逮捕した際にも人民の蜂起を正当化し、それを勧告するような言動さえ行なった。「あらゆる法が犯されたとき、専制が絶頂に達したとき、誠意や貞節が踏みにじられたとき、人民は蜂起しなければならない」(本書第10章)。 それはトランプ前大統領と同じだろうか。しかし、違いをあえて強調すれば、ロベスピエールの場合は、民主的選挙の結果を覆すような蜂起を正当化したわけではない。しかも、彼の言動は自分(たち)の立場や利害を擁護するために民衆を煽動するようなものではなかった。そこでロベスピエールが正当化したのは――為政者によって法が犯されたあとに起こる――民衆主導の蜂起である。彼が人民の蜂起権を主張したのはその証左だろう。 また、ロベスピエールは蜂起権とともに人民の請願権を「不可欠の権利」と呼んで重視した(本書第7章)。それは、「民衆が人民主権を定期的に行使する機会を開くためだった。彼は、議員が〈人民=民衆〉の声から逸脱した場合は、その声に耳を傾けるようにさせる仕組みが必要であると考えていた」。 この点に現代の「ポピュリスト」との大きな違いがあるように見える。彼らは人民の代表であると自称しながら国民を煽動する反面、国民の主体的な政治参加を期待しているわけでは必ずしもない。対してロベスピエールは、それが人民の意思(=一般意思)に基づく政治=民主主義には必要だと考えた。だからこそ彼は「私は人民の一員である」と繰り返す一方、自分は――人々が言うような――人民の「守護聖人」(=彼らの意思の体現者)ではないと言明した。 元祖〈ポピュリスト〉が信じた民主主義は、一般意思に基づく政治で、それは人民と代表者が透明な関係性を構築する場合に可能となる。だが、ロベスピエールに独自なのは人民の主体的な行動への期待とは裏腹に、代表者の役割と責任は大きいと考えたところにある。つまり、「人民」は代表される必要があるのであり、そのためには政治家が特殊(=個人的)利害に拘泥しない、その意味で腐敗していないことが求められた。彼はそれを《美徳》と呼んだ。 確かに、《美徳》は人民(民衆)には自然に備わっているはずだと想定されたが、それはしばしば曇らされているため、彼らは啓蒙される必要がある。だからこそ、代表者の役割と責任はあまりに大きい。政治家みずからが《美徳》ある存在たることが求められたのである。 したがって、ロベスピエールは直接民主主義を否定する。人民の意思(一般意思)に基づく政治が展望されたが、それには政治指導者の存在、彼らの《美徳》が不可欠なのだ。それが「清廉の人」、元祖〈ポピュリスト〉の矜持でもあった。もっとも、《美徳》が失われつつある時代にその成就は困難であることも、彼自身がおそらく誰よりも自覚していたはずだ。 それを踏まえると、現代の民主主義にとって深刻なのは、政治イデオロギーの相違よりも、《美徳》なき時代の特殊利益の支配、政治経済におけるオリガーキの再来のように思えてくる。