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「将棋に負けるのは少しだけ死ぬことだ」 夢に人生を賭けた人間の切実な業を描いた将棋ミステリ(レビュー)

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Book Bang

芦沢央・評「夢に人生を賭けた人間の、切実な業」

小説家・奥泉光が、「魔の図式」という詰将棋を軸に将棋指しの業を描いたミステリ作品『死神の棋譜』を刊行。本作について、ミステリ作家の芦沢央さんが読みどころを解説する。  * * *  私が将棋に興味を抱くようになったのは、奨励会がきっかけだった。  棋士になるには、奨励会で三段まで上がってリーグ戦で上位二名に入らなければならない。しかも、満二十六歳の誕生日を含む三段リーグ終了までに――この、夢を追って人生を将棋に費やしながら、年齢制限で退会を余儀なくされる者がほとんどだという現実に、強く関心を抱いたのだ。  運命を分ける一局で、その奨励会員が見ている景色はどんなものか。夢を強制的に断たれた人間は、その後どうやって生きていくのか。私自身が夢のあきらめ方がわからずに十二年間小説の投稿を続けた人間であることもあり、心を動かされずにいられなかった。

 本作の登場人物である北沢克弘、天谷敬太郎は、この三段リーグを抜けられずに退会し、今は将棋関連の物書きの仕事をしている男たちだ。もはや人生と一体化していた夢を断たれ、それでも将棋とつながることはやめられない彼らの前に現れたのが、「魔の図式」――奇妙な詰将棋である。  詰将棋とは、将棋の最終盤、玉を詰ませる局面だけに特化した、いわゆる論理パズルだ。攻方は玉を最も速く詰ませるように王手を続け、玉方は最も長く生き延びられるような手を返し続ける。その最善手の応酬の末に玉を詰ませるのだが、この「魔の図式」は、どうやっても詰まない。  つまり、本来ならば「何だ、不詰めか」と片付けられてしまうような不完全作なのだが、なぜかこれはそうさせない何かがある。さらに、図式が書かれた紙には〈詰まし得た者は棋道会へ馳せ参ぜよ〉という言葉が書かれている。  本当に詰ます方法があるというのか――謎は、この詰将棋を「詰めた」と主張する人間が過去にいたこと、そして「彼らはみんな将棋界から去り、姿まで消してしまった」という噂によって、否応なしに膨らんでいく。  消えてしまった将棋指しの一人である十河樹生を追った天谷は、十河から〈あの図式には驚くべき秘密があった〉のだと告げられる。だが、その秘密に近づくには、〈不詰めを詰まさなければならない〉。まったくの矛盾に思えることを、けれど自分は成し遂げたのだと十河はまくし立てるが、その後続けられたのは、〈究極の真理に通じる〉〈本物の将棋〉だという〈龍神棋〉についての話だった。  とても自分一人の人生では解明しきれない〈将棋の宇宙〉に、それでも人生を賭けて挑み、後世へと繋ぐ。そんな絶望と希望がないまぜになった営みの中に投げ込まれる、「この先に真理がある」という強烈な誘惑。  さらに十河は、〈選ばれた人間だけが棋道会への入会を許されるんです。名人になれるのが選ばれた棋士だけであるのと同じで〉と口にする。そして、その十河も、棋士になれずに奨励会を退会した人間であるという皮肉を象徴するかのように、物語は実在の出来事である第六九期名人戦七番勝負と並行して描かれていく。  天谷の話を半信半疑に聞いていた北沢だったが、何の因果か、彼もまた、失踪した夏尾裕樹の行方を捜すうちに、天谷と同じ道を辿り始める。玖村麻里奈女流二段に促される形で、棋道会の本拠地があったという北海道の姥谷へと飛ぶことになるのだ。  そして、北沢は暗闇に包まれた廃坑道の奥で、信じられないものを目にする。地下神殿に設えられた巨大な将棋盤――床全体に縦横の黒い線が引かれ、人の背丈ほどの立像が並んでいる――の盤上には、北沢が夢を断たれた運命の一局、奨励会での最後の対局の局面があったのだ。  たった一度の勝機を、北沢は決断しきれずに安全策をとり、逃した。その後八年近くの間、繰り返し検討し続け、悔い続けてきた一手。  ラストへ向けて二転三転する驚愕の真相にも刮目されたいが、何よりも圧巻なのは、この地下神殿における濃密で強烈な対局シーンだ。五感すべてがリアルすぎるほど研ぎ澄まされた空間の中で、「死」の恐怖に晒されながら駒を動かす。その一手一手の迫力。果てのない〈将棋の宇宙〉を肌で感じ取ることができる濃密な数ページ。〈将棋に負けるのは少しだけ死ぬことだ〉という言葉が、重く響いてくる。  ここまで読めば、もう引き返すことはできないはずだ。「魔の図式」に魅入られ、魔境へと引きずり込まれていく将棋指しと同じように。  その先に炙り出されてくるのは単なる真相ではない。人生を賭けて夢を追い続ける人間の、切実な業だ。 [レビュアー]芦沢央(作家) 新潮社 波 2020年9月号 掲載

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