〈総選挙 私はこう見る〉「選ぶべき候補者/政党がない、というタワゴト」 白井 聡
ただし、以上の話はすべて、「投票率が予想通り低いならば」ということを大前提とした話である。棄権者たち(白票も棄権と何も変わらない)の多くの言い分は次のようなものだ。「入れたい候補者、入れたい政党がない」。状況がまさにその通りであることは、上に説明してきた次第である。 だがしかし、こうした心情が「だから棄権する」という結論に導かれ、絶望気分に落ち込んでいるのだとすれば、それはタワゴトでしかない。われわれに真の意味で選択肢が与えられていないというのは正しいし、全般的に政治家たちが低劣に過ぎることも事実である。「普通選挙は3年ないし6年に一度、支配階級のどの成員が人民を代表し、かつ踏みにじるかを決定する」ものだというマルクスの警句が、今日以上に当てはまる状況も珍しい。 しかし、「困ったね、情けないね」などと嘆き節に浸っていられるのは、一種の特権にほかならない。戦後の矛盾が本土以上に表面化する沖縄では、傀儡的戦後レジームの代理(仲井眞陣営)vs 沖縄パトリオティズム(翁長陣営)というかたちで、ついに本当の意味での「ポスト55年体制」を体現する政治闘争の構図が現れた。「保革の壁を超えた選挙でした、むしろ県民はさきにその壁を超えていて、私たちのほうを待っていてくれた」と翁長氏は当選後に語ったが、それは、彼の地では、民心の変化を政治家たちが察知して新しい政治の枠組みをつくることを強制されたことを意味する。言い換えれば、沖縄では「新基地建設なんて困ったもんだね、どの政治家もあてにならないね」などと言って済ませていられる状況ではないからこそ、民衆は政治家を「啓蒙」し、闘う政治家をつくり上げた、ということである。
総選挙に立候補した者のうち当選可能性がありそうな連中は、ほとんど全部信ずるに値しない連中なのかもしれない。そうならば、本来はまともな候補を自分たちで送り出さねばならなかったのだし、それができないならマシな部類を何とか国会に送らねばならない。 現在の国会の顔ぶれがいかに悲惨であるかここでは十分説明できないが、問題は、第二次安倍政権となってから、とりわけ質の悪い面々が重要な職を与えられるようになっているという憂うべき傾向だ。極右活動家から喝采を浴び熱心に支持されている政治家たちが大臣その他の職に就いているのだから、いまや国家中枢が歴史修正主義にとり憑かれたネトウヨ同然の連中によって占領されていると見られても何の不思議もない。「美しい国」ならぬ「恥ずかしい国」そのものだが、こんな状態を是正するには、これらの輩を国会から駆逐するほかない。そうした決意を大多数の国民がするだけで、ロクでなしどもは公の舞台から居場所を失うはずなのだ。 政治に携わる人々が「使い物にならない」のなら、使えるようにしなければならない。現状で国政政治家たちが使い物にならないのだとすれば、それは彼らがそのような仕事ぶりでも許されているからである。このような緊張感の欠如は、日本人の多くがもうとっくに破綻している戦後の《平和と繁栄》の幻影に惑わされていることから生じているのであろう。戦後の矛盾を最も過酷なかたちで引き受けさせられた沖縄は、逸早くこの幻影から脱出した。平和主義が目に見えて脅かされ、経済的繁栄も刻一刻と失われてきた本土の日本人にとっても、本当は余裕などもはや微塵もないのである。 ---------------- 白井 聡(しらい さとし) 文化学園大学助教。1977年、東京都生れ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位修得退学。博士(社会学)。専攻は政治学・社会思想。著書『永続敗戦論──戦後日本の核心』(太田出版)で第35回石橋湛山賞、第12回角川財団学芸賞、第4回いける本大賞。他著書に、『未完のレーニン』(講談社選書メチエ)、『「物質」の蜂起をめざして──レーニン、〈力〉の思想』(作品社)等。 (※1)「【総選挙2014】一羽の鳥について(あらゆる選挙に寄せて)」いとうせいこう(ポリタス) (※2)「自民 民意薄い圧勝 小選挙区24% 比例代表15%」(東京新聞)