松下幸之助ら若手開業を支えた黄金期の形成、「大大阪」の経済構造とは
「大大阪」と呼ばれた大阪黄金期の形成には、「東洋のマンチェスター」と例えられたように綿産業や織物業、それを支えた商社の存在がありました。やがてその後の第1次世界大戦の好景気による重化学工業の発展が、大阪の経済基盤をさらに強くしていきます。 さらに、大阪では勤め先で仕事を覚えて独立、開業する風土があり、松下幸之助らやる気ある若手経営者らが次々生まれました。こうした仕組みはどのように確立されたのでしょうか。 日本経済史、日本経営史が専門の南山大経営学部、沢井実教授が、連載第2回「大大阪の経済構造」をテーマに執筆します。 ----------
「大大阪」の経済構造:商都と工都の好循環
表1にあるように阪神は京浜と比較して「染織」の比重が高かったが、第1次世界大戦(1914~18年)による大戦ブームによって大阪の機械器具、金属、化学といった重化学工業も大きく躍進した。明治期と比較して「大大阪」時代の経済構造は格段にその奥行きと厚みを増したのである。 大阪には明治初期より大阪砲兵工廠があった。東京砲兵工廠が主として小銃生産を担当したのに対し、大阪砲兵工廠は火砲、大砲生産を行った。砲兵工廠は戦時期に拡大し、戦争が終わると縮小する。これに伴って労働者も砲兵工廠と民間企業の間を行き来し、大阪の機械金属工業のすそ野を拡大していった。 もう一つ大阪の造船所のルーツとして、イギリス人のE.H.ハンターによって設立された大阪鉄工所(1943年に日立造船に社名変更)があった。 第1次世界大戦期の大阪の安治川、尻無川、木津川の周辺には“川筋”造船所が林立した。まさしく日本の「グラスゴー」である。その中でも元禄期創業の藤永田造船所、佐野安造船所(1911年創業)、名村造船所(同年創業)などが中堅造船所として有名であった。
松下幸之助の開業
第1次世界大戦期の発電機の輸入難と石炭価格の高騰によって、「電力飢饉」が発生する。経営危機に陥った大阪電灯(1888年創立)は第1次大戦後大阪市に買収され、一方、電力飢饉に対応して宇治川電気(1906年設立)の子会社である日本電力(19年設立)および大同電力が参入する。 以上の3社に東京電灯、名古屋を中心とする東邦電力を加えた五大電力が料金引き下げを伴った激しい「電力戦」を展開した。また大阪電灯の従業員であった松下幸之助が松下電気器具製作所を開業するのは1918年3月であった。