日本人捕虜が「時間つぶし」に制作した美術品 「驚くほど質高い」の声
第2次大戦中、オーストラリアとニュージーランドで抑留された旧日本兵らが計数百点の美術品を制作していた。和服姿の女性を描いた絵画に、抱き合い口づけを交わす男女の彫刻、色鮮やかな花札―。職人もおり、論文を発表したニュージーランド・カンタベリー大のリチャード・ブレン准教授(美術史論)は「学術的に全く注目されてこなかったが、美しい作品が多く、驚くほど質の高いものがある」としている。論文への反響は大きく、同様の美術品が世界各地に残っている可能性も指摘されている。(共同通信=板井和也) ▽時間つぶし オーストラリア・フリンダース大のテツ・キムラ講師(美術史)とまとめた論文によると、大戦中、オーストラリアとニュージーランドでは8カ所の捕虜収容所や民間人収容所に計5千人以上の日本兵らを収容。中でも、ニューギニア戦線などで捕虜となった日本兵が1944年8月に集団脱走を図り、200人以上が死亡する「カウラ事件」が起きたオーストラリア東部カウラの捕虜収容所が知られている。
各収容所では、時間つぶしのために絵や彫刻などの美術品を作る人が多くおり、有田焼の絵付け師だった捕虜が描いた花札も残る。特にニュージーランドのフェザーストン収容所には大工や製図技師、建築家ら職人経験を持つ捕虜が多かったとの記録が存在する。 絵の具の代わりに手に入れやすい薬品を使って絵に色をつけたり、収容所に自生する広葉樹を使って彫刻や寄せ木細工の箱を作ったりしたという。 ▽図画工作の影響も 完成した作品を看守に渡してたばこと交換するほか、親切にしてくれた地元の農民や、傷の手当てや看病をしてくれた看護師らに作品を贈ることもあった。フェザーストン収容所の敷地からは木製のマージャンパイが多く出土するなど、どの収容所でも捕虜らが娯楽に興じていたことがうかがえるという。 キムラ氏は「こうした作品がこれまであまり注目を浴びることがなかったのは作者が有名な戦争作家などではなく一般人だったからだが、手先の器用な人が多かったのではないか。明治以降、初等教育に図画工作が導入された影響も見てとれる」と話す。