大川小、遺族と卒業生の6年 続く裁判と校舎保存と
2011年3月の東日本大震災による津波で児童74人、教職員10人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市の大川小学校には、いまも連日のように、多くの人が訪れています。震災当日の津波からの避難をめぐって裁判が続き、校舎は震災遺構として保存が決まりました。あの日から、もうすぐ6年。遺族や卒業生らはどのような思いで震災をみつめるのでしょうか。 【写真】「一生分泣いた」市民の思いも詰まった震災特集 2人だけの月刊タウン誌
「もう家に帰って来ているんじゃないか」
紫桃(しとう)さよみさん(50)は、大川小に通っていた次女の千聖さん(当時小学5年)を震災の津波で亡くしました。仏壇には毎日、「おはよう」と声をかけています。6年前は家族7人でしたが、両親は他界。長男と長女は進学や就職のため、家を離れました。いまでは夫婦2人だけです。 「荷物は7人分あります。でも、(処分するか)迷っています。夢に出て来たとき、千聖が『いつまでも気にしなくてもいいよ』と言っていましたし」 大川小は北上川の河口から約4キロに位置します。さよみさんは震災当日、さらに1.6キロ上流にある大川中学校で長男の卒業式に出ていました。その後、大川小から4キロほど上流にある福地地区の自宅に戻りました。そのとき地震があったのです。 自宅には両親と長男、そしてさよみさんの4人がいました。動揺する両親を落ち着かせていたところ、時計を見ると、午後3時でした。余震が続くなか、スクールバスで帰宅する時間になりましたが、バスは来ません。108人の児童のうち、74人が津波にのまれて、死亡・行方不明となりました。その中に千聖さんもいました。 あれから6年。福地地区の亡くなった児童の5遺族のうち、4遺族が合同で3月5日に7回忌の法要を行いました。同地区は津波被害がないため、合同でできる環境があります。さよみさんはこう話します。 「3回忌までは5遺族でしていました。今回参加しなかった遺族は、子どもが亡くなった現実を受け入れられないのでしょう。その気持ちはわかります。そのため、私は(子どもがなくなった現実を受け入れないといけないという)気持ちを追い込んで、あえて(共同の法要に参加し)やらないといけない状況を作りました」 月命日にはしばらく学校の校舎に通っていましたが、最近は、掃除当番のときだけです。 「千聖がいつまでも学校にいるとは思っていません。もう家に帰って来ているんじゃないでしょうか。私が寂しいときには私のそばにいます。おじいちゃんとお姉ちゃんが喧嘩したら仲裁に入る、そんな子でした」 千聖さんの肌の感覚や髪の匂いも覚えているという、さよみさん。押入れにある服はもう匂いが抜けているようで、寂しそうに話していました。