「水谷さんの背中をずっと見てきた」卓球選手・丹羽孝希が語る卓球人気への想い
14歳で世界選手権に出場した俊英は昨年、最大の試練に見舞われた。難局をギリギリのところで乗り越え、今、未来へ進もうとしている。(雑誌『ターザン』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.784より全文掲載) [写真]卓球選手・丹羽孝希
水谷さんの背中をずっと見てきた。
2019年末、卓球のオリンピック代表の選考は大詰めを迎えていた。代表は出場した大会で得られたポイントの合計によって決められるが、12月12日から開催されたグランドファイナルの成績によって、2人の選手のうちどちらかがシングルスの代表となることになった。 1人が丹羽孝希であり、もう1人が水谷隼である。ここまでのポイントは、丹羽が495ポイントでリード。この大会には丹羽は出場しておらず、水谷が丹羽を上回るためには、4位以内が条件であった。しかし、1回戦でブラジルのウーゴ・カルデラノに敗れたので、丹羽が東京オリンピックのシングルス代表を、その手につかんだのであった。 「本当に最後までわからないギリギリの状態だったので、うれしさもありましたが、ほっとした部分が大きかったです。ファイナルはテレビで見ていたのですが、結果次第で代表になれるかどうかだったので、やっぱり……、気になっていましたね」 丹羽はこれまで、ロンドン、リオデジャネイロのオリンピックに出場している。2大会とも水谷と一緒で、リオの団体戦では日本男子初の銀メダルに輝いた。当時の日本の卓球界は、絶対王者・水谷とそれを追う数人という図式。1枠は水谷でほぼ決まり。残りの2枠(シングルス1人と団体戦代表1人)を数人で競うという状況だった。丹羽が振り返る。 「ロンドンのときは高校3年生でした。まだ選考はポイント制ではなかったのですが、僕が急激に世界ランクを上げるとかいろんなプラス材料があったので、監督推薦で選ばれました。3番目(団体戦要員)だったんですけど。リオではポイント制になって、1番目は水谷さんで2番目が僕。3番目の選手がけっこう離れていたので、このときが一番すんなりと決まった感じだったんです」 丹羽は以前、「水谷さんの背中を見てきた。水谷さんがずっと日本を引っ張ってくれたから、下の世代もそれに追いつこうとして頑張ってこられた」と語っている。ところがリオ以降、それまでの図式を、いとも簡単に打ち壊す少年が出現する。ご存じであろう、張本智和だ。オリンピックの翌年の17年、史上最年少の14歳61日で、ITTFワールドツアー男子シングルスに優勝すると、どんどんと実力をつけ、2人を脅かすようになる。というより、「張本に勝つのは難しいと思っていた」と丹羽が口にしたほどに、強さが際立っていったのであった。 案の定、ポイントでは張本が飛び抜けた。自然、2枠目が丹羽と水谷の争いになっていく。代表レースは熾烈を極めていった。そんななか、丹羽は大きな試練に見舞われる。19年6月から、なんと7大会連続で初戦敗退を喫してしまったのである。 「19年のポイントでオリンピックの代表が決まるので大変でした。あれだけ連続して負けたことがなかったので……。1回勝つと流れが戻ってきて勝てるようになり、徐々に自分のプレイができるようになったんですが、なかなか気持ちの切り替えは追いつきませんでした。自分本来の調子に戻れたのはようやく11月ぐらいです。だから、本当にギリギリだったんですよ」 丹羽の凄いところは、こんな状況のなか、すべての試合ではないが、Tリーグの出場を続けたことである。このリーグは18年に最初のシーズンが開幕し、19―20(年)シーズンは2年目に当たる。Tリーグの人気を拡大しないといけない時期が、代表選考と重なってしまった。人気外国人選手が何人か抜け、リーグ2年目に水を差した。もちろん、それは致し方ないことなのだが……。 「新しいリーグなので、やっぱりトップ選手が出場しないと盛り上がらないと思うんです。だから、出られるときは出て、チームに貢献したかった。他の選手がどうかというのは、関係なかったです。自分にできることをするだけです」 丹羽にとっての19年は、これまで経験したことのない、とてつもないハードな一年だったに違いない。ちなみに、水谷は東京オリンピックの3枠目に滑り込んだ。この3人がどのように戦ってくれるのか大変楽しみだが、19年はまた、卓球界の世代交代をはっきりと感じさせる、そんな年だったともいえるわけである。