日本人の「死生観」のおもしろさ…「死後の世界のイメージ」と「霊が集まる山」の深い関係
死とどう向き合うか
やがてかならず訪れる「死」をどう考えるか。この世界を生きるだれにとっても切実な課題です。 【写真】天皇家に仕えた「女官」、そのきらびやかな姿 この問題に向き合うときに、先人の知恵や考え方を参考にしてみることは、大きな手助けとなるでしょう。 では、かつての日本人は「死」にどう向き合ってきたか。そのことをくわしくおしえてくれるのが、『日本人の死生観』という本です(原著は1994年の刊行。現在は講談社学術文庫で読むことができます)。 著者は、著名な仏教民俗学者である五来重さん(1993年没)。東京帝大印度哲学科、京都帝大史学科を卒業し、高野山大学教授などを務めました。 日本人の死生観というと武士道や切腹がイメージされがちですが、本書は、日本の「庶民の死生観」をあとづける本で、日本にゆるく広がる宗教的な感覚についておしえてくれます。 たとえば、古代人の死生観と「山」の関係について以下のような記述があります。同書より引用します(読みやすさのため、改行などを編集しています)。 * ……古代人の死後の世界観を見てみよう。タイムトラベルやタイムトンネルを通ったつもりで、一千年あるいは二千年前の日本人にもどるのである。そうすると死後の世界は厳然と存在するが、それは闇黒の「やみ」の世界で「よみの国」とよばれ、中国の地下の「黄泉」という文字をあてて、黄泉国と書かれた。 しかし日本人の「よみの国」は「死出の山路」などとよばれる幾山河を越えた彼方の暗い谷間で、この地上の延長線上にあった。死者の霊は生前におかした罪の軽重に応じて、針を立てたようなけわしい山を越え、血の池のような害獣毒蛇のすむ川をわたり、飢と渇きをしのぶ苦痛をなめなければならない。 そのために死者は死装束に、白の帷子(かたびら)・草鞋・脚絆をつけ、笠と杖をもち、六文銭と五穀の種を入れた頭陀袋を首にかけるという旅姿で、野辺に送られた。 このような古代人の死後観はだいたい世界共通で、この地上と連続した遠方の山や谷、あるいは海上の島などに死者の霊のあつまる世界があると考えられていた。またそのような世界を垂直的な上下関係で、地下としたり天上とする信仰もあって、これらを総称して「他界」というのが、宗教学上の用語になっている。 他界(Das Jenseit)ということば、原始人が「遠い彼方」という表現をとるからであるが、日本でも俗に死んだということを、「彼方(あっち)むいて行った」といったり、「垜山(あずちやま)」という言葉があったりする。安土などもその変化だろうと思う。 山の中に他界を想定するのを「山中他界」というが、これは古代には庶民は死者を山に葬った(風葬・野葬・林葬)ことからおこったものと考えられる。野辺の送りを「山行き」といい、墓を山(陵)というのはその名残りで、葬られた霊魂は死体からぬけ出して「死出の山路」をこえながら、長い苦しい旅をするものと古代の庶民は信じていた。 「率土(そと)が浜」の彼方に海をへだててそびえる恐山などは、まさしく他界の幻想をよぶのにふさわしく、死霊の山となり、死霊に会ってその言葉を聞くイタコ市がひらかれるようになる。 このような他界信仰の山は日本全国いたるところにあったのだが、地獄谷とか賽の河原の地名をもつ山は、たしかに他界信仰のあった証拠といってよいだろう。立山(たてやま)も白山もそれがあり、立山の地獄谷に陸奥の率土が浜(外が浜)なる猟師の亡霊が来ていた話は、世阿弥の謡曲「善知鳥」でよく知られている。 しかもこの立山地獄の物語は平安時代の『本朝法華験記』や『今昔物語』に見えて、古代人にひろく信じられていたことがわかる。 熊野詣も古代末期から中世にかけて繁昌したが、熊野路の山中では死んだ肉親の亡霊に会えるといわれた。いまでも年寄りのなかには、善光寺の内陣の地下の戒壇めぐりの闇のなかで、死んだ子供に会えると信じている者もいる。死者の霊に会えるのはけっして恐山だけではなく、古代にはいたるところに、そうした山があったのである。 * 「死後の世界」と「山」はかつて、相当に密接な関係にあったようです。 さらに【つづき】「死んだ人が行く「常世」とはどんな世界なのか…? 日本人がこれまでに考えてきたこと」の記事では「常世(とこよ)」についてくわしく見ていきます。
学術文庫&選書メチエ編集部