AIは「脳の外在化」を進める人間の必然
脳は外部を内在化し内部を外在化する
工学的にいうと、脳はすべての外力(電気的な刺激)をそのまま傷として残す圧倒的な「塑性」の性質をもつようだ。 それが記憶であり、個人の思考の傾向すなわち性格というものも、その集積として形成される(もちろんDNAによる遺伝を基幹として)。そして脳は、その記憶と思考の結果を外部に発信する。脳とは、すなわち人間のもっとも内奥にありながら、もっとも外的な器官なのだ。 内在する脳(内脳)はあらゆる外部情報を記憶として蓄積し、その記憶を「意味」をもつ知として記号化し外在化された脳(外脳)に刷りつけていく。外脳は、人間の身体(DNA)を離れ、社会的に存続し、蓄積され、流通し、増殖し、発展し、人間に内在する脳(内脳)に影響を与える。読書とは外脳が内脳を教育することだ。こうして外脳と内脳との相互作用が進展する。この相互作用(意味の入出力)こそ人間性の本質である。 人間は、「脳の外在化」を進める動物である。 人間の身体の変化を一次的な進化、居住空間(生態)の変化すなわち都市化を、すなわち脳の外在化を、二次的な進化ととらえれば、二次的な進化は一次的な進化とは比べ物にならないくらい速く、加速的である。人間は二次的な進化を遂げる動物であり、人間の歴史はその加速の記録なのだ。
量産される外脳
文字が登場したとはいえ、永いあいだ、その使用者すなわち読み書きする人は限られていた。西欧では主として聖職者、中国では主として官僚である。この点で日本は、江戸時代からあるいはそれ以前から、きわめて識字率の高い社会として知られている。中国で早くから紙が発達し、朝鮮や日本で木版が発達したことにもよろう。つまり日本は外脳量産の先進国といえる。 その点、羊皮紙(非常に高価)に頼っていたヨーロッパでは、文字の普及が遅れていた。しかし15世紀における活版印刷の登場と、16世紀における出版の発達は、「知」を教会の独占から解放し、大航海による「世界」という視野の獲得ともあいまって、17世紀以後の啓蒙主義につながり、自我の発達した近代的個人を生みだす。つまり「ユーラシアの大きな文化圏」における外脳の大量生産が近代社会を生む下地となった*3。古代地中海文明(メソポタミア、エジプトを含む)を受け継ぐダイナミズムである。 テレビというものが、それまでのメディアと違うところは、外脳(テレビのコンテンツ)の発信力(電子的な映像と音響)が強く、内脳(視聴者)の主体性を脅かすことである。つまり内脳が受動的になって空洞化する恐れがあるのだ。 コンピューターは計算機の意味であるが、中国では「電脳」と訳されている。今日ではその方が正しいように感じる。これはまさに脳の外在化であり電子化なのだ。メインフレーム(大型計算機)は社会的な外在化であったが、パソコンは個人的な外在化であり、計算機というより人間の相棒のような存在となった。もともと脳内の情報伝達が電気的なものであるところから、内脳と外脳の入出力が即時化され、直接的なものとなり、主客関係が逆転する恐れ、内脳空洞化の危険は、テレビの比ではない。オタク、引きこもり、ゲーム中毒といった現象を生む*4。 インターネットは外脳の社会化であり、都市化である。外脳が内脳の制御を離れて相互に連携しているのだ。そしてこういったテレビ以来の電子情報による脳の外在化が、古代地中海文明(文字)、近世近代西欧文明(出版)を受け継ぐ、現代アメリカ文明で起きていることも意味深い事実である。