メディアは新型コロナ報道への批判にどう向き合うべきか 本当に必要なのは「公表する情報の制限」ではない?
メディアに自らへの透明性はあるか
とはいえ、報道に対する社会の不満は強い。ワイドショーを中心に、煽るような報道への批判もある。医療関係者からは事実関係や解釈の間違いなどの指摘も出ている。 メディアはこうした声に、どう応えていくべきなのか。 澤さんは、こうした不満や議論の根底にあるのは、メディアの「批判に答えない姿勢」への不信感があるのではないかと考えている。だからこそ、「重要なのはトランスペアレンシー(透明性)だ」と言う。 「透明性の担保というのは、メディアは不得意です。東洋、西洋問わず、ジャーナリズム倫理の本を読めば、透明性に関しての記述は少なくない。これは、自らそれが自分たちの苦手分野であると自白しているようなものです。それは日本においても同様です」 「透明性というものは諸刃の刃であり、取材過程が明らかになることによるマイナスもある。あるいはバッシングの危険性もあります。ですから、全てのことにおいて透明性を、とは言いません」 「ですが、もっと透明性を高めるためにできることはありますし、そうした声にきちんと答えられるジャーナリズムの方がより良いものとなり、結果として読者や視聴者は増えると考えます」
どんな情報をどう扱うべきなのか
コロナを巡る情報で、国や自治体などは何を公表し、何を伏せるべきなのか。それをメディアと市民は、どう扱うべきなのか。 澤さんが例に挙げたのは、京都で起きた、感染者の情報を公表する際に国籍も出すかどうかの議論だ。京都新聞は6月、京都府が国籍の公表をやめたと報じた。 国籍の公表は、差別や排除につながりかねないから控えるべきだ、という意見がある。澤さんはこれに理解を示した上で、「我々が戦うべきなのは差別であって、情報そのものではない」とし、公表を止めたことに異を唱えた。 「現代社会にはあらゆる差別が存在します。どんな情報をもとにしても、差別は起きる。あらゆる情報が差別につながりうる。そうした中で、『この情報を知れば、差別が起きる』と考え、情報の公開を控える。それは、民主主義社会においては許されないと思います」 「差別する人に厳しく対処する。あるいは、そのような差別や偏見は事実無根であると啓発・啓蒙する。そうした取り組みは必要です。ですが、差別が起きることを懸念して情報を公開しないという行為は、主権者を主権者でなくしてしまう危険性があると僕は考えています」