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日本軍の元捕虜の遺族が語る「父の虐待の記憶」─オーストラリアで消えぬ太平洋戦争の「負の連鎖」

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クーリエ・ジャポン

豪人捕虜の遺族を訪ねて

2018年6月6日、韓国での朝鮮人BC級戦犯の遺族の撮影ののち、私はオーストラリア大陸南東部に位置するビクトリア州の州都メルボルンへ飛んだ。父親が日本軍の捕虜となったイギリス人の遺族から数珠つなぎに話を伺っていくなか、オーストラリア人捕虜の遺族へとつながったのだ。 1941年12月8日、日本軍のマレー作戦・真珠湾攻撃の開始後、イギリス・アメリカに続いてオーストラリアの当時の首相ジョン・ジョゼフ・カーティンは日本に対して宣戦布告をした。「カウラ日本人戦争墓地オンラインデータベース」によれば、日本兵の戦争捕虜はニューサウスウェールズ州のヘイとカウラ、ビクトリア州のマーチソンに収容され、オーストラリアに住んでいた民間人は南オーストラリア州のラブデーとビクトリア州のタツラに収容された。 日本軍は開戦翌年の2月19日にはオーストラリア大陸北部のダーウィン市への爆撃を開始し、200名以上が死亡した。戦線ではオーストラリア軍兵士2万2000人以上が日本軍の捕虜となった。そのうち、シンガポール陥落の際に捕虜となった人は1万5000人近くに上り、現インドネシアのジャバ、アンボン、パプアニューギニアのニューブリテン島などで捕虜になった人もいた。 彼らは「死の鉄道」と呼ばれた泰緬鉄道での強制労働に従事させられるなど、甚大な犠牲を強いられた。 泰緬鉄道の建設のなかで最も過酷な区間の一つとされた「ヘル・ファイアーパス」は、オーストラリア政府の出資によって現在も戦争遺跡、そして慰霊施設として保全されている。 清々しい秋空の下、バスと電車を乗り継ぎながら遺族の自宅へと向かった。ときおり、車窓からカンガルーが見える。「ああ、自分はオーストラリアにいるんだなあ」と呑気なことを思いながらも、日本から8000km以上も離れたこの場所に日本軍の犠牲者がいるという事実に、戦争がもたらした途方もない広大な犠牲を改めて感じた。 12日間の滞在の間に10人の遺族から話を聞くことが出来た。ここでは、そのなかから2人のインタビューを紹介したい。

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