玉鷲「入門から3年間は他の部屋の力士と交流しないように」相撲に没頭して言葉の壁を打破
元関脇・青葉城が持っていた通算連続出場記録(1630回)を塗り替え、大相撲に新たな記録を打ち立てた玉鷲。特別なスポーツ経験が無いまま19歳で相撲を始めたという、異色の経歴を持つ。16日に40歳の誕生日を迎えたばかり。そんな玉鷲のTHE CHANGEとは──。【第3回/全5回】 ■【画像】塩まきをする玉鷲「入門から3年間は他の部屋の力士と交流しないように」相撲に没頭、連続出場を続ける 大相撲に入門したばかりの力士が必ず通う、両国国技館敷地内にある相撲教習所。 ここでの同期生や1期下の嘉風(現・中村親方)らとの稽古では、負けず嫌いな面を見せていた玉鷲だったが、相撲部屋での生活は戸惑うことが多かった。 「言葉が通じないのが、一番困りましたね。所属する片男波部屋にはモンゴル人は自分1人なので、最初は兄弟子たちと英語の単語で会話していたんです。お互いたどたどしかったけどね(笑)。 日本語がわからないと、稽古場で注意されている言葉の意味がわからない。自分は空気を読みすぎてしまうところがあるので(笑)、“ウン、ウン”と適当にうなづいていると、“おまえ、本当は日本語がわかってるんじゃないのか?”と、誤解される。それがつらくて、教習所で他の部屋のモンゴル人力士と話をすると、今度は日本語が下手になってしまう……」
他の部屋のモンゴル出身力士と交流せず相撲に没頭
まさに、試行錯誤の日々だった。 そして、師匠(片男波親方)からは、「入門から3年間は他の部屋の力士と交流しないように」と言い渡されていた。母国語が通じない寂しさから、同じ国出身者同士でつるんで、日本語が上達しない。言葉の意味がわからないので相撲そのものがイヤになり、ついには志半ばで辞めていく外国出身力士は、かつて多かった。 「磨けば光るものを持っている力士」と玉鷲を見抜いていた師匠は、まずは日本での生活、言葉、相撲部屋の慣習などを叩き込むために、心を鬼にして、相撲に没頭させることにしたのである。 「しばらくすると部屋の生活にも慣れて、ちゃんこなどの食事もおいしく食べることができました。“日本には幽霊がいる”とか、“富士山は怖い山だ”とか、モンゴル時代はいろんなことを聞かされてきたけれど、それもウソだったし(笑)。 あと、体を作るために、3年間ほぼ毎日、東京・錦糸町のトレーニングジムに通っていたのですが、筋トレがいい気分転換になりましたね」 入門から1年半で幕下に昇進した玉鷲だったが、その後、番付は行ったりきたり。相撲内容が固まっていないことも1つの原因だった。 「自分のように身長が高い力士(189センチ)は、一般的に四つ相撲を得意としている人が多いんですが、師匠からは“まわしを取るな! 押していけ”と指導されていました。(母国の)モンゴル相撲は四つに組んだところから始まることもあって、なかなか突き押し相撲に馴染めなかったんです」 07年秋場所での幕下全勝優勝をキッカケに、玉鷲が新十両昇進を決めたのは、08年初場所のこと。入門からちょうど4年が経っていた。 「 “大学に通ったつもりで4年ガマンする”と決めていたけれど、幕下昇進から2年以上が過ぎての昇進は、自分でも遅いと思っていた。でも、『運は順番に来る』という言葉を信じて、チャンスを待っていてよかったです」 十両、つまり関取になると、毎月、相撲協会から給料がもらえる。身のまわりの世話をしてくれる付け人が付き、着る物も待遇も、これまでとはガラッと変わる。ところが、母国の人たちは、「十両=有資格者」であることを理解してくれなかったと言う。 「モンゴルでは毎場所、NHKの大相撲中継がリアルタイムでOAされているんですが、テレビに映るのは幕内の相撲からなんですよ。だから、“十両? なにそれ?”みたいな対応で、ちょっと悲しかった(笑)。今考えれば、十両になったくらいでテングになるな、勘違いするな、早くもっと上に行けよ! という戒めだったんでしょうね」 その後玉鷲は、08年秋場所、待望の幕内力士になるのだが、わずか1場所で幕内から転落。幕内力士として定着したのは、翌09年九州場所からのことだった。 玉鷲 一朗(たまわし いちろう) 1984年11月16日生まれ、モンゴル・ウランバートル市出身。片男波部屋所属の現役大相撲力士。2024年の秋場所で大相撲の通算連続出場回数、歴代1位の記録を更新。スポーツ経験が特に無いまま19歳で相撲を始め、30代から力を付けたという、同世代のモンゴル人力士の中でも異色の経歴を持つ。身長189cm、体重178kg。血液型はAB型。最高位は東関脇。趣味は小物、菓子作り、人間観察。 武田葉月
武田葉月